現在、日本が抱える問題には、財政赤字、経済成長の鈍化、社会の空洞化、移民政策の是非等々がある。しかしいずれの問題にも、その背後には人口減少問題がある。
政府は現在の出生率が続けば、日本の人口は現在の1億2千万人から、2060年には8,674万人まで落ち込むと予想している。
出生率の低迷が認識されてからすでに30年以上になる。出生率の低下の原因は、女性が安心して子供を産んで育てられる環境整備が進んでいないことだと誰でも分かる。
総理になる前の安倍晋三は、2000年代前半に、男女共同参画運動やジェンダーフリー教育を「保守」の立場から批判し、第一次政権でも「女性政策」には見向きもしなかった。だが、今回の第二次政権では打って変わって女性の活躍を最前面に打ち出している。
安倍政権は小泉政権が2003年に掲げた、2020年までに指導的地位における女性の割合を30%に引き上げるという目標をアベノミクス成長戦略の中核に据えたかと思えば、今度は「1億総活躍」のスローガンの一環として「女性が輝く社会」を掲げいる。
しかし、それは女性政策といいながら、あくまでも経済成長戦略の一環としての女性の労働力としての活用が主眼になっている。別に女性の権利に突然目覚めたわけではなく、少子化・高齢化がいよいよ抜き差しならない問題になってきたための、窮余の一策だと言えなくはない。
安倍政権の「ウーマノミクス」は、もっぱら経済政策、とりわけ人口減少に伴う労働力の減少に対応するために、女性の労働力を活用することに政策の力点が置かれているのは明らかだが、それでも本当に女性が働きやすい環境作りが進むのであれば、そのこと自体はいいことだ。
だが、女性の権利という理念が置き去りになったままであるならば、結果的にこれからの女性は男性並みに働かされた上に、家事や子育てもこれまで通り女性が担わなければならないというような立場に追い込まれる。そうなれば、男性にとっても決して幸せな生活は望めないだろう。
現在、日本の女性の社会進出は、世界の潮流から完全に取り残されている。国会の女性議員が占める割合は衆参合わせて11.6%、列国議会同盟(IPU)が世界ランキングの対象としている衆議院では9.5%にとどまり、世界の153位に低迷している。
官界、経済界でも、国家公務員の課長級で3.5%、企業の女性社長は7.5%、上場企業の女性役員はわずか2.8%という状況である。
政権が掲げる「2020年に指導的地位における女性の割合を30%」という目標を実現するためには、それまでに指導的な地位を担えるだけの経験を積んだ人材が揃っていることが必要であり、一人の職業人がそれなりの年数をかけてキャリアを積まなければならない。そう考えれば、この目標を実現するのは、もはや不可能であろう。
実際、政府が昨年12月に閣議決定した「第4次男女共同参画基本計画」では、女性の進出度を分野ごとにより現実的な数値目標を設定し直した結果、30%には遠く及ばないことが明らかになり、事実上「2020年30%」目標は断念されている。
日本における女性の社会進出が、欧米先進国は言うに及ばず、新興国や発展途上国にも水を開けられるまで遅れているのは、もちろん、戦後の政治を主として担ってきた自民党政権下の保守政治の構造とその性格に根本的原因がある。
戦後、日本の政治の担い手は、戦前からの政治家と官僚、そして2世、3世議員に大きく偏っていた。しかも、その大半は高齢の男性だったし、今もその傾向は変わっていない。彼らのようなある意味で特権階級出身の高齢男性にとっては、育児や家事、介護などをもっぱら女性が担うことは、ごくごく当たり前のことだった。そのため戦後の日本では一貫して、そうした性別固定的で保守的な価値観や家族観に基づいて法律や社会制度が整備されていった。
だがその点では、欧米先進国であっても多かれ少なかれ同じである。1950年代、60年代が高度経済成長期であったのは日本だけでなく、この時代はどの国も経済の工業化と「核家族化」の下で性的役割分担が促進され、結婚した女性の「専業主婦化」も進んだ。
現在の日本社会における女性の地位を固定化する大きな転機となったものに、1979年に当時の大平内閣が決定した「新経済社会七か年計画」がある。
日本が高度経済成長を経て福祉社会を迎えるにあたって打ち出されたこの計画では、稼ぎ主としての男性と、家事・育児などを担う主婦から成る標準家庭が、これからの日本の福祉の担うことが想定され、以後、そのモデルに基づいた社会制度の整備が進められてきた。
それが1980年代になって、専業主婦らを優遇する年金の第三号被保険者制度や税制上の配偶者控除制度などの設立につながり、現在の男女の役割分業的な世界観が、制度面からも固定化されていった。
70年代の石油ショックをいち早く抜け出し、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた日本は、その大国としての地位を守り抜くために、ヨーロッパ型の社会民主主義的な政治がもたらす社会福祉予算の増大を避けることが目標化され、日本型福祉社会が強調された。
「新経済社会七か年計画」に代表される、日本のおける女性政策の多くが、いずれも経済政策としての色彩を色濃く持っていた。女性の権利や人権から生み出された女性政策というよりも、福祉、介護のようにその時々に求められる社会的な機能の担い手として女性を活用することが、経済的にも財政的にも合理的だと考えられ、それが女性政策の名の下で実施される一方で、理念的な女性政策、新たな形の男女共同による社会開発の構想は、それの実現を使命とする社会民主主義的な政治勢力を弱体化させる試みが成功する中で、巧妙に排除された。
現在の安倍政権による女性政策も「ウーマノミクス」の異名を取る通り、経済合理性の観点から推進されている。しかもそこで言及される「経済」は、80年代までの重厚長大型産業に重きが置かれたものである。
確かに、人口の半分を占める女性が経済活動で活躍が疎外されることの経済的損失は大きい。女性の就業率を男性並みに引き上げることで、日本のGDPを10数%押し上げる効果があるという民間の試算もあるように、能力も意欲のある女性が社会の中で思う存分活躍できる環境を整備することには、経済的にも大きな意味がある。
しかし、自民党の日本国憲法改正草案に見られる伝統的ともいえる家族観や道徳観と、女性の活躍は両立するのであろうか。ウーマノミクスと安倍政権の反動的路線が同時進行で進めば、女性はそうした家族観にそった伝統的な役割を全うしつつ、もう一方で、経済プレーヤーとして男性と伍して競争していかなければならない立場に置かれるようなことになりかねない。
それを避けるためには、女性の生き方や家族モデルに多様性を認め、男性の側に対しても家事や育児への積極的な関与をサポートする仕組みが必要となる。しかしながら、歴史的にみれば極めて疑わしい「伝統」を理由に選択的夫婦別姓にさえ同意できない現在の政権の「伝統的」な価値観を見ると、その先行きは全くの不透明だと言わざるを得ない。

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