恋のおわりは いつもいつも
立ち去る者だけが 美しい
残されて 戸惑う者たちは
追いかけて 焦がれて 泣き狂う (中島みゆき 「わかれうた」)
ちょっと前、「会社は誰のものか」という問いかけがメディアでブームになった。しかし、マスメディアっていうのはいつもそうだけど、問いかけているようで、実はもう問いかけている人の心に答えがある。
問いかけという形式は取っているが、実はこう応えて欲しいなという期待が見え見えなのである。「取材」というが、実はあらかじめある答えを語ってくれる人を探しているだけだったりする。会社は経営者と株主のものじゃありません。働く者たちを大切にしてね、という気持ちが表れている。
まあ、時代の風潮はそういう方向に流れている。ホリエモンや村上ファンドの事件をきっかけにして、終身雇用制はやめて能力主義だといっていた大企業経営者も、いや能力主義をやりすぎて社内がギスギスしすぎるようになりましたから、などと掌を返すように言い出す。
毎日新聞にはこんな記事も出てきた。(毎日新聞 2008年6月23日)金融・商社などで、総合職とは別に、一般職の採用を復活する動きが続いている。例えば、三井物産は、来春入社の正社員で一般職を採用する。5年勤務の契約社員を正社員にする例はあったが、新卒は11年ぶり。募集約30人(既卒含む)に1500人の応募があった。
復活の背景には、「経営理念や価値観の共有がより重視されている。有期雇用では動機付けが難しい」(広報部)という事情があるらしい。丸紅(同)も昨年、一般職採用を復活し、朝日生命は、勤務地限定の契約社員「エリア事務職」を正社員の「エリア総合職」に切り替えた。
毎日コミュニケーションズの就職サイト「マイナビ」の栗田卓也編集長は「若年労働人口の減少で、金融・商社は3年ほど前から、総合職でも勤務地を特定した採用が増えた。企業コンプライアンス(法令順守)の面で、非正規雇用の従業員にすべてを任せられないことも分かったのでは」と見る。
ただ復活といっても、採用数は絞り込まれている。「正社員と有期雇用のどちらで採るか、見極める動きが今後も続く」と栗田編集長は語る。一般職ねえ。一般職で採用されたOLたちが、社内恋愛でケッコンし、専業主婦となって企業戦士を銃後で支えるというのが昔の物語でしたね。ここでも、古きよき時代よもう一度という気分が漂う。
だが、終身雇用制というものが日本の大企業で機能したのは、同時に高度成長があったからだろう。全体のパイが大きくなったから、終身雇用、年功序列賃金が可能になったのだ。会社が大きくならなければ、年寄りの、高給で無能な(少なくとも若者からはそう見える)上司が目立ってしまうだけだ。
日本を「改革」すれば、まだ中国に負けないくらいの成長が可能だという人もいるが、なんだか自分はまだ若いつもりで、若い人と混じってマラソンをして心臓マヒで倒れる中高年のような感じがしてちょっと痛々しい。特に、「上げ潮派」といわれる自民党の中川秀直さんなどを見ていると、そう思う。(腹上死しそうね、なんて下品なことは言いませんが・・・)
私は、法律をきちんと勉強したことがなかった。最近になって、民法や会社法の本を読んで少しずつ勉強している。法律を学んだ人からみれば、笑われるような話で恥ずかしいが、会社法に出てくる「社員」という言葉は、普通にいう従業員のことではなく、株主のことだということを知って、驚いた。
会社法には株主と株主総会で選出された取締役が登場する。あとは監査役などがいるけれど、従業員(普通で言う「会社員」)は登場しない。なんだ、「会社は誰のものか」なんて問わなくても、もう答えは出ている。会社は経営者と株主のものなのだ。それ以外の答えはない。経営者が得た利潤を株主に配当するシステムが「会社」なのだ。
もちろん、会社員というか、働く人たちが重要ではないというのではない。その人たちがモノではなく人間として扱われ、人間らしく生きられるために、「労働法」の世界がある。
私は1980年に大学を卒業した。そのころ、どうしても会社に勤めるのはイヤだなあという気持ちが拭えなかった。でもそのことで後ろめたい気持ちもあった。世間は、フリーター(この言葉が出てくるのはもっと後)などの非正規雇用の人間に、モラトリアム人間だの、パラサイトシングルだのというレッテル張りをして、揶揄した。
フリーター、NGOのスタッフ、日本語学校の非常勤講師の職を経験したが、どこか自分の生き方に自信が持てなかった。今でこそ、NGOのスタッフになりたいという大学生が増えたが、NGOなんていう言葉が世間に認知されたのは1992年の国連ブラジル環境会議以後のことだ。それ以前にNGOで働き始める機会を得た私は、もちろん自分の気持ちとしては、仕事に誇りはあったけれど、どこか世間に評価されていないという気持ちが拭えなかった。ケッコンなんて考えられないと自分では思い込んでいた。
ニート・フリーターは将来親が死ねばあとは生活保護しかない、などという声を聞くと、私は人事でない気持ちになる、まあ、私も両親がともに世を去ったけれど、どうにか生活は成り立っているのだが。
私は今、会社員の道を選ばなかった自分の生き方は、少なくとも自分に関する限りは正しかったし、それがこれまで少なくとも精神的に健全に生きられてきた理由だと自信を持って言える。特にバブルの時代、NGOのスタッフとしてフィリピンの底辺の人たちの暮らしを知ったことは、当時の日本の社会の異常さに巻き込まれないで生きられた貴重な体験だったと思っている。
「会社人間」たちは今、自分がずっと何十年も本妻だと思いこんでいたら、実は自分が馬鹿にしてきた第二婦人そのものだったことを知って衝撃を受けている女性のような状況にいるのだろうか。

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