日本は他の民主主義の国々と同様に、憲法で表現の自由を保障している。放送にも、政府や政治権力が介入することは憲法違反であり、あってはならない。
しかし、世論に大きな影響力を持つ放送事業者が、真実性や公平性、公共性を無視して恣意的な放送を流してはならないのは当然である。
そこで他の先進国では、まずは放送事業者に自律的に自らの放送内容の真実性や公平性に責任を持たせた上で、それに対して市民が不断の監視を行える仕組みを工夫して作っている。
しかし、日本はそのような制度を作ることができていない。放送事業者は政府の監督下に置かれている。
そもそも日本は放送免許を政府が直接付与する、先進国の中では異常な放送行政の制度を採用している。
敗戦後、戦前の大本営発表に対する反省から、GHQは電波監理委員会という独立行政組織を設け、そこに政府から独立した形で放送行政を監理させることで、特定の政治勢力による放送への介入を阻止する制度を積極的に構築した。
しかし、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が施政権を回復すると、吉田茂内閣はただちに電波監理委員会を廃止して、放送免許は戦前と同様に、政府管理の下に置かれた。
憲法21条は表現の自由を保障している。政府が個人の表現の自由を犯すような法律を作ったり、そのような権力の行使をしたりしてはならない。
そして、その憲法の下に放送法が存在する。放送法第1条の「放送の不偏不党」は放送局に党派色のある報道を禁じているのではなく、放送への特定の政治勢力の介入を許してはならないと解される。
また、放送法の1条は放送の自律を保障し、同3条は「何人からも干渉され、又は規律されることがない」ことを定めている。憲法21条は言うに及ばず、放送法の1条と3条は、放送局に対する法律というよりも、政府の行動を律する法律と解されている。
ところが、放送法には第4条に「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などの記述がある。
憲法第21条や放送法の1条、3条を前提に読めば、それは放送局が自律的に担保しなければならない「倫理規定」であることは明白だ。
だが、憲法やそれ以前の条文の存在を無視して、4条だけを単独で読めば、放送局には政治的な公平性が求められており、政府はそれを前提に放送局に対して一定の強制力を持つと解することができると、政府は主張してる。
であるから、政府は放送局に対して行政指導を行う権限があり、違反行為が繰り返される場合は停波、つまり放送を止める権限もあるというのが、現在の政府の解釈である。
しかしながら、放送法4条は法律の制定当初からつい最近までは倫理規定と解されていた。放送法が制定された1950年の国会で、当時の網島毅電波監理長官が法案の提案理由説明の中で、放送法は表現の自由を根本原則として掲げたもので、「政府は放送番組に対する検閲、監督等は一切行わない」と明言している。そのため、4条に定められた番組基準も、あくまで放送局自身が自律的に担保すべき倫理規定と解されてきた。
しかし、世論に対するテレビの影響力が強くなったのに伴い、1990年代になってから、特に細川連立政権成立後、テレビ朝日の「椿発言」などを契機に、郵政省(現総務省)は放送法4条には法規範性、つまり強制力があるとする解釈を打ち出すようになり、実際にそのような解釈に基づいて、放送局に対する行政指導が行われるようになった。
そのような政府解釈は本来違憲の疑いが強い。しかしながら、行政指導はそもそも強制力を伴った権力行為ではない。したがって、法廷の場で合憲性が争われるような事態には至らない。
だが実際は、政府が放送事業を直接に監督して免許を出す役割を担っていることを背景として、放送局はたとえそれが「指導」に過ぎずとも、実際はそれに唯々諾々と従うばかりで、とても裁判に訴えたりするような自立性は担保されない。
総務省のそのような解釈の下、今回高市早苗大臣は、行政指導に従わない放送事業者があれば、大臣の判断の下に権力行使が行われることもあり得るとの見解を示した。それは政府の一方的な解釈に基づいて、放送法4条に基づく公平性が保たれていないと判断すれば、総務大臣はい究極的な権力の行使ともいうべき「停波」にまで踏み込めるというのである。
これは安倍政権の放送への介入姿勢が、また一段ステップアップしたものと見ていいだろう。
2月10日の衆議院予算委員会では安倍首相は、2014年11月にTBSのニュース23クロスに出演した際に、番組の編集方針に注文を付けたことについて堂々と、一出演者として注文を付けてはいけないと言うほうがおかしいと主張している。
「私の考えを述べるのはまさに言論の自由だ」と首相は昨年3月の予算委員会でも語った。
だが、放送事業の監督者であり免許の交付の権限を最終的に持つ首相が放送の編集に注文を付ける行為は、憲法や放送法が禁じる違法行為に当たるとの認識が、首相にも総務大臣にもないことが明らかになったということである。
確かに、今直ちに放送局が政治的公平性を理由に停波の処分を受けるようなことは考えにくい。だが、安倍政権が発するこうした一連の発言は、放送局に有形無形の圧力となり、大きな萎縮効果を、現に与えていることは明らかであろう。
首相自身は過去に「本当に萎縮しているのであれば報道機関にとって恥ずかしいこと」などと語っており、そこには放送局のマスコミ人としての反省もあってしかるべきではあるとはいうものの、権力者が放送事業者に持っている絶大な力を背景にして内閣総理大臣自身が言うべき言葉なのかどうかは考えてみるべきだ。
そもそも安倍政権による一連の放送への介入行為には、放送法の解釈に対する根本的な誤解がある。権力と放送事業の間に民主的な権力抑制のシステムを構築する必要がある。

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