リップマンとデューイの立場の違いは、現実主義と理想主義の対立に見える。
19世紀から20世紀にかけての新聞、電話、映画、ラジオなどの発達が、アメリカ社会の公衆を進化させ、民主主義の発展を促進しうるという理想主義の立場に対し、発達したメディアそのもののなかにイデオロギー性や政治性が宿っているという批判的な立場をとるアドルノやホルクハイマーのような「文化産業論」の立場も1930年代に現れる。
この立場から見れば、例えばラジオというメディアは、すべての人々を民主主義的に聴衆の立場に置き、放送局が流す情報や娯楽を受動的に受け取るだけで、やがて日常生活における意識や美的感覚に至るまでが画一化する大衆社会が出現するというものである。
アドルノなどの文化産業論が大衆社会の将来を悲観的に見たのに対し、「複製技術の時代における芸術作品」においてヴァルター・ベンヤミンは、悲観的な大衆社会論とは違う視点を提示した。
ベンヤミンは、写真、映画などの複製芸術の誕生は、「どんなに近くにあっても遠い遥けさを思わせる一回限りの現象」というアウラを芸術作品から消失させる。(ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術」晶文社 1999年 P138)
「遥けさは、近さの反対である。遥けさの本質は、近づきがたいということにある。じじつ、礼拝像の質を決定する要因は、その近寄りがたい趣である。」(p138)
「蒐集家は、芸術作品の所有をとおして、作品そのものの礼拝的価値の造出にあずかっているのである。」(p138)
ところが「映画の場合、複製技術は、たとえば文学や絵画のばあいと違って、作品を大量に普及させせるための外部から与えられた条件である。映画のリプリントの根拠は、映画製作技術そのもののなかにある。製作技術そのものが直接的に映画作品の大量の普及を可能にするばかりでなく、むしろ普及せざるをえないようにしている。」(p138)
ベンヤミンによれば、例えば映画は確かに「映画資本が主導権を握っているかぎり、一般にこんにちの映画から期待できるのは、従来の芸術観に対する革命的批判の推進だけである。それ以外、こんにちの映画からは、いかなる革命的機能を期待することもできない」(P31)という。
しかしながら、映画が大衆の芸術に対する関係を変化させることに注目しなければならない、とベンヤミンは言う。
「幾世紀ものあいだ文学の世界では、少数の執筆者が何千倍もの数の読者を相手にする状態が続いてきた。しかし前世紀のおわりごろ、ひとつの変化が生じた。それは、新聞の急速な普及である。そして、新聞がたえず新しい政治的・宗教的・学術的・職業的・地域的読者組織を掌握するにつれ、ますます多くの読者が----はじめはごく散発的であったが------執筆者のがわへ移っていった。同時に日刊新聞も〈読者欄〉を一般に公開しはじめ、こんにちでは、働いているひとびとで原則としてどこかでその労働経験、苦情、ルポルタージュ等を発表するチャンスを見いだし得ないようなひとは、ヨーロッパにはほとんどいないという状況である。」(p32)
したがって、今日の映画産業が、たとえ「荒唐無稽な空想やいかがわしい思惑によって大衆を動員することに血道をあげるばかり」であるにしても、普通の労働者が俳優となり、自分たちのコミュニケーションの手段として自己を実現していくようなこともありうるという。現にソビエト映画においては、それが部分的に実現しつつある、というのである。(P33)
ベンヤミンの複製芸術化が普通の人々にコミュニケーションの手段としての作品を創造する道を開くという見解は、ファシズムと独裁的共産主義体制を経験した今日からみればいささか楽観的(理想主義的)だったかもしれない。
しかしながら、我々の未来はしょせん巨大文化産業に意識も思想も感情も美意識まで操られる運命にあり、せいぜいそれを批判してだまされないように心掛けることしかできないのか。

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