環境権について、公明党は護憲でも改憲でもない 「加憲」 という言葉で議論をしているようだが、どこまで真面目なのかは分からない。
一応、憲法学の多くの意見では13条の幸福追求権のなかに、新しい人権は組み込まれているということである。
しかしながら、「環境権」は人権なのかという話も出てくる。
公明党はもちろん、環境権を新しい人権とするならば権利の主体はあくまで人間ということになる。
環境権はあくまでも人権ということは、人権と人権が相互に利害対立を起こす場合は、これを調整するということになる。
そうなると、たとえば経済的活動と自然保護の対立はどうなるか。もしかしたら、憲法に書き加えるというアメの代償として、これまでの環境保護政策に逆行するようなことが許されるきっかけを、「加憲」が果たしてしまう可能性もないわけではない。
まあ、さすがに公害華やかなりし時代ではないから、「経済活動vs環境保護」なんていうことはないとは思うが。
しかし、経済格差の時代である。森林を破壊しても生活の資を得ざるを得ない貧しい人たちをダマして「組織化」し、自分たちが生き延びるために熱帯林を伐採させようなどという新手の陰謀が大企業によって企まれる危険もあるかもしれない。
そのときに、法律上の環境権はどうなるのか。まあ、こんなことは杞憂でおわってほしいのであるが。
今までの話は、あくまで人権としての環境権のことである。
エクアドルの憲法では、自然そのものが主体として権利を持っている、というふうに規定されているという話がある。世界で初めてのものだとBBCが報道した、とあるブログ記事が言っているようだが、ホントかどうかアタシには分からない。
ただ、日本でもアマミノクロウサギを訴えの主として訴訟を起こした例があるという話を読んだ記憶がある。もちろん、ある種の新しい社会的な価値観を訴えるアピールの一種なんだろうけど。
それはともかく、「動物倫理」については3つの概念があるらしい。
1.動物愛護
2.動物福祉
3.動物の権利
1と2は、考えてみれば分かるが、動物を愛護することから得られる幸福の権利を侵されたくないということであり、自然保護を進めることで動物の福祉を促進することが、自分にとっても豊かな環境の中でよりよ快適に生きられる権利が守られるというようなことだということが想像できる。
いうまでもなく、この権利の主体は人間である。
1と2に関していえば、人権の一種であるから利害と利害の対立が起きたときに、相互の調整が行われて、人権が制限される事態も起こり得る。
動物でいえば、薬品開発などの際の動物実験での動物の利用を認めるのか認めないのかが、重要なトピックになり得る。さすがに、毛皮だのという話は通りにくくなっている。
ところが動物そのものに権利を認めるとなれば、当然に薬品開発の実験での動物利用なんて認めないだろう。人が人を殺すことが許されないように、動物が権利の主体だといえば、動物の意に反した苦痛は許されない。
もっとも、そもそも人間が主体となっている基本的人権を守るために作れた憲法に、自然や動物が主体となった権利も書き加えるとなると、これはいったいどうなるかという、まったく新しい次元の問題になってくる。
参照:
https://www.facebook.com/tomy.yang.1/posts/1151674901521439?fref=nf&pnref=story

0