安倍首相はサミットの討議の場でこのようなことを語った。
「リーマンショック直前の洞爺湖サミットで危機の発生を防ぐことができなかった。その轍は踏みたくない。世界経済は分岐点にある。政策対応を誤ると、危機に陥るリスクがあるのは認識しておかなければならない」
そして各国の積極的な財政出動の必要性を訴えた。
しかし、イギリスのキャメロン首相らから、「危機は言い過ぎだ」などの指摘が出た。
サミットの共同声明の世界経済に対する認識のくだりは、首相の目論見に比較して、かなりトーンダウンした内容になった。
海外のメディアでは、安倍首相の世界経済の「危機」に関する認識が、他の首脳との間で温度差があったことを指摘する記事や論説が多かった。
かねてから、安倍首相は来年4月に予定される消費増税について、「リーマンショックや大震災のような事態が発生しない限り実施する」と国会などで発言してきた。
政府は今月の月例経済報告で景気の現状について、「このところ弱さも見られるが、緩やかな回復基調が続いている」という判断を維持したうえで、熊本地震の影響が観光や生産などで広がっていることから、今後、経済に与える影響について十分留意する必要があると指摘したものの、景気の現状について先月から大きな変化はないとした。
つまり、「このところ弱さも見られるが、緩やかな回復基調が続いている」という判断を維持していたのである。
ところが、首相は唐突にも、世界の指導者が集まるサミットの場で、現在の世界の経済情勢がリーマンショック前に似ているとの同意を得ようとした。
そこには同じ政府の見解とは思えぬほどの認識の差がある。
安倍首相がサミットの討議の場で「リーマンショック」を持ち出した背景に、国内の政治的な思惑があったことは間違いないだろう。
サミットの共同声明に何らかの形でリーマンショックの文言を滑り込ませることで、消費増税延期の口実にしようというわけだ。有権者が嫌がる増税先送りを選挙前に発表することで、7月10日にも予定されている参議院選挙や、場合によっては衆議院解散による同日ダブル選挙を優位に戦いたいという思惑だ。
だが 、少なくともG7の首脳たちは安倍首相と世界経済の危機に関して認識を共有することには慎重だった。
世界の指導者たちが世界的な問題を討議する場であったはずのサミットを、小手先の国内政治目的で利用しようなどと考えるのは常識に外れている。
特に議題を設定する強い権限を持つホスト国の首相が、そのようなことをしていては、サミットを主催する資格が疑われる。
なぜ政府の月例経済報告における「緩やかな回復基調が続いている」という見解と、安倍首相がサミットの場で唐突にリーマンショックを持ち出してまで経済危機を訴えたその見解という、分裂状態が生まれたのか。
その背景には、根深い問題が潜んでいた。それは、今回のサミットでは安倍首相並びに首相官邸が、自らの政治目的達成のために、他の政府の部局とは無関係に単独で暴走していた疑いがあるということなのである。
27日に国会内で行われた民進党による外務省のサミット担当者へのヒアリングでその背景が少し明らかになった。
民進党のサミット調査チームは、サミットの討議の場で首相が唐突にリーマンショック前夜を持ち出した際に各国の首脳に提示した4枚の資料の出どころを問題視した。
もちろん、首相には自らの政治的な判断で様々な交渉を行う権限がある。だが、今回首相が「政治的判断」でリーマンショック前夜を持ち出した際に使われた資料には、日本政府がサミット寸前まで公式に発表してきた世界経済の状況判断とはあまりにかけ離れた内容が書かれていた。
首相がサミットの場で持ち出した「リーマンショック前夜」の認識の前提は、政府の公式の経済判断とは全く無関係に、一部局が独断で単独で作成したデータに基づくものだったのだ。
そのペーパーにはIMFのコモディティ・インデックスや新興国の経済指標などが印刷されており、それらのデータがリーマンショック前のそれと似ていることを指摘する注釈が書き込まれていた。
現在の世界経済がリーマンショック前の状況と似ていることを無理やりこじつけるために、使えそうなデータを恣意的に引っ張ってきただけの、およそサミットの場で首脳たちに配布するに値するとは言えない、やや怪文書に近い代物だった。
民進党のチームはサミットを担当する外務省経済局政策課の担当者を国会内の会議室に呼び、その資料の出どころを問い質した。
その資料に反映されていた世界経済の現状認識が、その僅か3日前に政府が月例経済報告で示した認識と180度異なる内容だったからであった。
安倍政権は5月23日に開かれた「月例経済報告等に関する関係閣僚会議」の場で、世界経済は「全体としては緩やかに回復している。先行きについては、緩やかな回復が続くことが期待される」とする2016年5月の月例経済報告を了解していた。
5月23日に安倍首相自らが出席した関係閣僚会議で「全体としては緩やかに回復している。先行きについては、緩やかな回復が続くことが期待される」とする判断を決定しておきながら、3日後のサミットの場では、「リーマンショック前と似ている危機的な状況」と説明し、誰が作ったかもわからない資料が各国首脳に配布されていた。
民進党のチームに呼ばれた外務省経済局政策課の浪岡大介主席事務官は、資料の作成者は誰かを問われると当初、「自分も直前に見せられたので知らない」と回答した。
だが政府の外交に関わる文書統括の責任者であることの重大さに気づくと前言を翻し、「自分たちが作ったものだが、詳細は言えない」との回答を繰り替えした。
同じくヒアリングに呼ばれた内閣府の月例経済報告の担当者は、サミットで配られた資料の内容が政府が正規に作成した世界経済の現状認識とは大きく異なることを認めた上で、内閣府は問題となった資料の作成には関与していないことを明らかにした。
同じくヒアリングに参加した財務相の担当者らも、「サミットのことは外務省に聞いてほしい」と繰り返すばかりだった。
ではなぜ首相が唐突に討議の場で「リーマンショック」を持ち出して、世界経済の危機を語りだしたのか。首相周辺が何者かに命じて、それを裏付ける資料を急きょ作らせ、政府の経済見通しに直接関与する内閣府は無論のこと、サミットの討議の裏方を務める外務省でさえ、討議の直前までその資料の存在を知らされていなかったというのが事の真相のようだ。
サミットにおける各国責任者の言動は、言うまでもなく大きな影響を世界の政治経済に与える。今回は事なきを得たが、「世界経済は危機的な状況にある」との安倍首相の「特異な」認識が流布し、市場がそれに反応し、実際に危機を生んでしまう危険性もあった。
他の世界の首脳たちが否定しても、その判断には何らかの根拠があると市場が受け止めても不思議はない。
ましてや、一国の首相が直前まで公にしてきた政府の公式見解とは全く無関係に、そしておそらく純粋に国内政治の党略的な動機から、サミットの場で危機を煽り、何者かがそれを裏付ける資料を急ごしらえで作成していたのだとすれば、日本政府の統治能力という点からも大きな問題がある。
今回の首相の「リーマン危機」発言の真相は明らかにされなければならない。
ところが首相の記者会見では、記者クラブ所属の各社の記者によるおとなしい質問しか出ない。国会は6月1日で閉幕してしまう。民進党は急遽国会での緊急の審議を求めたが、無論与党はこれに応じないため、この問題の真相はこのまま藪の中に置かれたまま封印されてしまう可能性が大きい。
サミットの政治利用を目論んだ挙句、他の首脳からこれを諫められ、阻止されたたという事実があった疑いが濃厚である。そして、政府の公式見解とは全くかけ離れたところで官邸の暴走があったようである。
だが、それを問いただす記者会見や国会は機能していない。つまり日本の民主主義は機能停止に陥っているように見える。

0