「勝つか負けるかそれはわからない。それでもとにかく戦いの出場通知を抱きしめて、あいつは海になりました」なんて歌の文句は、一見「ここで勝負に出なきゃオトコが廃る」みたいな話に似てると考える人が多い。
だがこの歌は、「闘う君の唄を 闘わない奴らが笑うだろ 冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ」と続く。オトコとか、会社とか、あるいは家族でさえも後ろに背負わないで自分の価値観にお照らして不条理や正義に反するものに立ち向かわねばならないときもあると聞こえる。
リベラル派はずっと敗北ばかりしているという揶揄の声は、かなり多い。やられっぱなしじゃないかとか、いう話は耳タコである。「いや、憲法9条は空文化していてもまだアベは文字通りの改憲を目指しているのだということは、やはり解釈改憲ではおのずと限界があることを示している」とも言う。
松本健一は、谷川雁は大正行動隊のたたかいに「敗北」したといういより、60年代の大衆が「共同体」への回帰ではなく、高度経済成長を選択したことこそが、彼の敗北だったというような議論をふっかけたようだ。谷川雁は、別に自分も1960年代に共同体の復活が可能だなんて一つも考えていたわけではない、と応じた。
谷川は、大正行動隊の戦いを、勝利などという観念からどれだけ離脱できるかに賭けた行動だったと語った。松本は、そういう成敗を問わない「賭け」の行動こそが、保田与重郎の日本浪漫派にも特徴となるロマン主義者に特有の精神構造だという。
まあしかし、勝つか負けるかはかまわない、「日本の持つ浪漫主義が国民の情勢として表現されたこの数年は我らの史書に特に誌されねばならぬ日であろう」と放言した日本浪漫派は、今どきの言い方をすれば、見たいものしか見ないし聞きたいことしか聞かない、という奴であってネトウヨの元祖みたいなところと紙一重だろう。
あんな負けると分かっていた対米戦争に突入する前にどうして中国大陸での侵略を止められなかったのかと言われれば、始めてしまったものはいまさら引き返せない、大勢にあがらえない、ということで多数派が容認した。もしこれも含んで浪漫主義なら、一億総ロマン主義者と言うことになるようにも思える。いや、日本浪漫派にならって、ロマンティッシュアイロニーか?

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