「アジアが生み出す世界像 竹内好の残したもの」(編集グループSURE刊行)は2008年12月6日に京都で行われた公開シンポジウム「竹内好の残したもの」の記録をまとめた本である。
この中の、中島岳志の基調講演のなかからのメモである。
竹内好という人間に一貫しているものは、優等生であることへの疑念である。自己保全、自己保身欲をどのように超えていけばいいのか。そのなかでの「決意」を持って行動をおこす、そこに彼の筋の通った人間性がある。
「私の経験から帰納した定理の一つは、学生はつねに教師に迎合する、というのである。」(竹内 「忘れえぬ教師」)
「劣等感からの脱出のために、教師に迎合して優等生となり、保身を図って他人を見くだす。竹内が生涯を通じてテーマとしたのは、こうした迎合と保身のメカニズムからの脱却であった。」(小熊英二「民主と愛国」p396)
優等生とはドレイであるという見方が竹内にはあった。それは近代日本の主流の人々が優等生=ドレイであるという一貫した見方である。
「日本文化は構造的に優等生文化である」。「優越感と劣等感の並存という主体性を欠いたドレイ感情」が近代日本のなかに根付いている。
「主体性の欠如は、自己が自己自身でないことからきている。自己が自己自身でないのは、自己自身であることを放棄したからだ。つまり抵抗を放棄したからだ。出発点で放棄している。放棄したことは日本文化の優秀さのあらわれである。(だから日本文化の優秀さは、ドレイとしての優秀さ、ダラクの方向における優秀さだ。)抵抗を放棄した優秀さ、進歩性のゆえに、抵抗を放棄しなかった他の東洋諸国が、後退的に見える。」(「近代とは何か」)
竹内はアジア主義を大きく二分化して考える。ひとつは「革命的アジア主義」であり、もうひとつは「反革命的アジア主義」である。
革命的アジア主義は、下から上への主権要求であり、異議申し立てである。それは明治政府の反主流派の中から生まれ、明治6年の政変で下野し、西郷隆盛、玄洋社などの初発のアジア主義となった。自由民権運動の中にこの流れは大きく影響を与え、そこから藩閥政治批判、近代化路線への批判、反帝国主義が生まれた。その流れは、思想的には「近代の超克」へとリンクする。
反革命アジア主義は上からの統治であり、明治政府主流派の持っていたアジア観である。彼らの中にはパワーポリティックスの論理があり、近代化路線を進める必要があると信じ、「脱亜入欧」をめざしつつ、植民地化を進めて帝国主義にのっかり、上からの大東亜共栄圏構想を打ち出す。
竹内によれば、このような反革命的アジア主義の性格が優等生文化であり、優越感と劣等感の並存という主体性を欠いたドレイ感情そのものであった。ドレイとしての優秀さが近代日本を象徴している。
福沢諭吉は日清戦争の勝利を近代日本国家が揺るぎなきものとなった文明の勝利として随喜した。アジア主義はこの福沢の批判をテコにして育った。西欧文明をより高い価値観によって否定した岡倉天心や、滅亡の共感によってマイナス価値としてのアジア主義を、価値としての文明に身を以て対決させた宮崎㴞天が現れる。
岡倉天心が強調した「不二一元論」のようなものは、やがて京都学派の哲学につながるような東洋哲学との関係性をはらむ。宮崎㴞天のような滅亡への共感が生み出すアジア主義は、抵抗としての連帯につながり、玄洋社や吉野作造、岩波茂雄にまでつながる。
岡倉天心のアジア主義は、宮崎、玄洋社、吉野につらなる抵抗への連帯にはつながらなかったが、大川周明の思想は一部で天心の文明観につらなる。大川の活躍した時代のアジア主義は、心情と論理が分裂していたり、あるいは論理がいつのまにか侵略の論理に組み込まれたりした。
そこには、抵抗の論理としてスタートしたアジア主義が、現実政治上での政策の実現を図るという意図の下に、反革命アジア主義の体制の論理に組み込まれてしまうことも起こりうる。第二次世界大戦中の大東亜共栄圏思想は、ある意味革命的アジア主義が反革命的アジア主義(優等生主義)に飲み込まれた帰結点でもあったが、革命的アジア主義からの逸脱の結果であるとも見える。

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