ハイチは、1804年にラテンアメリカで初めて独立した国家で、世界初の黒人による共和制国家です。
しかし独立後、独立を承認する国家は存在せず、いわゆる「国際社会」の承認はなかなかされませんでしたが、フランスからの独立の承認を得る代償として賠償金の支払いに応じ、やっと「国際社会」から独立が認められた経緯があります。
しかし、この賠償金は長年借金としてハイチを苦しめることとなりました。奴隷が立ち上がってできた国の政府が奴隷制を復活させるなどして借金をかえそうとはしましたが、その後も経済は貧しいままでした。
1870年代末以降、まだ国家分裂や反乱が続くなか、近代化への道を歩み始めて砂糖貿易などの産業が発展しました。しかしフランスへの賠償金は完済できず、近代化のための借金もふくらみ、ハイチの財政を圧迫した。
ドイツによる干渉とハイチ占領・再植民地化の試みが繰り返されたり、それがカリブ海を裏庭とみなすアメリカの警戒を呼んだりしましたが、1915年、アメリカは債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領しました。
このため数十万人のハイチ人がキューバやドミニカ共和国に亡命したといいます。アメリカ軍は1934年まで軍政を続け、この間合衆国をモデルにした憲法の導入、分裂を繰り返さないための権力と産業の首都への集中、軍隊の訓練などを行いました。
1957年、クーデターで誕生した軍事独裁政権の下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデターが繰り返されましたが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家のフランソワ・デュヴァリエが大統領に就任しました。
デュヴァリエは福祉に長年かかわり保健関係の閣僚も歴任し、当初は黒人進歩派とみなされましたが、やがて警察や国家財政などを私物化し軍事独裁体制に変貌しました。
デュヴァリエは戒厳令を敷いて言論や反対派を弾圧し、秘密警察トントン・マクートを発足させ多くの国民を逮捕・拷問・殺害しました。1971年にデュヴァリエは死亡し、息子のジャン=クロード・デュヴァリエが後を継ぎました。
独裁は、国家財政が破綻しクーデターでデュヴァリエが追われる1986年まで続ました。
1987年に新憲法が制定され、民主的選挙がおこなわれ、「解放の神学」の実践者でもあった神父出身の左派のアリスティドが1991年に大統領に就任しました。しかし、同年9月にラウル・セドラ将軍による軍事クーデターがおこり、アリスティドは亡命しました。
軍事政権は、国連(国際連合ハイチ・ミッション)及びアメリカの働きかけや、経済制裁などの圧力、軍事行動を受け、最後には政権を返上し、セドラ将軍は下野して、アリスティドが1994年に大統領に復帰しました。
その後1996年には、アリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが新大統領になり、2001年には、再びアリスティドが大統領となりました。
しかし、2004年に入って武力衝突が発生し、2004年2月5日「ハイチ解放再建革命戦線」が北部の町ゴナイーヴで蜂起。2月29日、アリスティドは大統領を辞任し、隣国ドミニカ共和国へ出国し、中央アフリカ共和国に亡命し、アレクサンドル最高裁長官が1987年の憲法の規定に従って暫定大統領になりました。
アリスティド前大統領は中央アフリカ共和国においてフランス軍の保護下に入ったといいます。アリスティド本人は亡命先で、「米国とフランスによる誘拐であり、自分が法的で正統な大統領である」と訴えていました。
その後、長く国連事務局にあったラトルチュが首相に指名され、組閣が行われましたが、一連の動きに対し国連は臨時大統領アレクサンドルの要請に基づき多国籍暫定軍(MIF)の現地展開を承認し、3月1日には主力のアメリカ軍がハイチに上陸しました。
そして4月20日には安保理決議1542号が採択され、MIFの後続としてブラジル陸軍を主力とする国際連合ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)を設立、治安回復などを図ることとなりました。
ハイチでの国連の活動は、数次の期間延長により2010年初頭現在も活動中です。2006年2月に大統領選挙が行われルネ・ガルシア・プレヴァルが51%の得票率で当選し、5月に大統領に就任しました。
今回の地震で、アメリカや中国がいち早く支援のための軍を出動させたのは、もともと国連のもとに自国関係者が多く現地で活動を行っていて、自国民も被害にあっているからだそうです。
ボリビアの反米左派、モラレス大統領は20日、大地震の被災地ハイチに米軍が大量の兵士を派遣したことについて「米国は災害を利用してハイチを軍事的に占拠することはできない」などと批判しました。(AP通信)
ベネズエラのチャベス大統領も17日に兵士の数の多さや装備などから「戦争に行くようなもの」と非難していました。
アメリカ軍はこれまでに兵士ら約1万1500人を派遣し、今週末までに計1万6千人態勢となる見通しで、増派決議分を含めたハイチの国連平和維持活動(PKO)に従事する兵士・警官の数を上回っています。(共同)
ボリビアのモラレス大統領は20日さらに、震災で困っているハイチの人々への救援を口実にするアメリカ軍の「ハイチ占領」を非難しました。また、国連が緊急会議を開いて、アメリカの「不公正かつ非人道的な行動」を非難するよう要求しました。
モラレス大統領はマスコミに対して「アメリカは、ハイチに7000人の武装兵士を派遣した。今後1万人規模になるという。アメリカは、ハイチ国民の不幸に付け込んで震災を受けた国を侵略し占領してはいけない」と述べました。
モラレス大統領は、また「地震で多くの人が死亡した。いま重要なのは人の命を救うことでハイチを軍事占領することではない」と強調しました。 ニカラグアのオルデカ大統領も、アメリカの行動を非難しています。
ジャーナリストのナオミ・クラインさんは、「私たちがはっきりと認識しなくてはならないのは、自然災害であり人的災害でもある今回の悲劇が、次の二つのことに必ず利用される」からだ、と述べています。
「まず第一に、ハイチをさらに借金づけにすること、そして二番目に、米国の企業利益を優先する、あまり人気のない政策を無理やり承認させることです。陰謀説などではありません。これまでに、何回も起きてきたことなのです」と指摘しています。
こういう声が出るのは、1915年、アメリカが債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領し、シャルルマーニュ・ペラルト将軍などが海兵隊と戦って敗北し、数十万人のハイチ人がキューバやドミニカ共和国に亡命した歴史があるからでしょう。
アメリカ軍の軍政は1934年まで続き、その後も同国を支配し続けました。なぜ、ボリビアなどが「震災救援」を名目とする今回の米軍のハイチ大量派兵を「米軍によるハイチ占領」と批判するのか理解できるところがあります。
ハイチの農業生産性は低く、食料自給率は45%。米の自給率は30%未満。そのため、恒常的に食糧不足で、食料需要の大半を海外からの輸入と援助に大きく依存してきましたが、人口の約半数に相当する380万人は慢性的に栄養失調状態にあります。
かつてフランソワ・デュヴァリエ時代、ハイチは国際的にも孤立していたため、食糧の自給は最重要課題であり、政府の保護政策によって、食糧自給率は80%でしたが、民主化後はアメリカの米が多量にハイチにも入り、ハイチの米価は暴落したそうです。
このため米農家は次々と田んぼを放棄し、都市へ仕事を求めるようになり、ハイチの食料自給率は急落しました。
1996年に就任したプレヴァル大統領以来、少し経済は回復しましたが、主な外貨収入はコーヒー豆の輸出と国外在住のハイチ人からの送金と国際的な援助ぐらいです。軍部はアメリカへの麻薬密輸で莫大な利益を得ていた、といいます。
2007年3月、9月の豪雨、8月、10月、12月の熱帯性暴風雨等の自然災害により、全国で約4万世帯が被災し、同国穀倉地帯も甚大な被害を受けたため、国連による緊急アピールが複数回出されました。
ハイチへの緊急援助は必要ですが、少なくともハイチをさらに借金づけにすることや、食糧自給率を下げさせるようなことに結びつかないように進めることが重要になってきています。過去の国際援助の経過もさらに検証することが必要でしょう。

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