「お前ら印象が惡いんだよ」と極附けることこそ「あれやこれや因縁をつけて非難」する事だらう。 俺は一度もそんな事はしてゐない。 「匿名」氏は根本的に勘違ひしてゐるが、議論で相手が根據ナシに適當な事を言つてゐる時には、根據の提出を求めるのが當り前だ。それを脅迫だの折伏だのと極附けられてはたまらない。それこそデマの流布だ。その邊の事は前田さんだつて解つてゐた筈。 一々横から「一般論」と云ふ名の印象論をぶちかまして、成立してゐた議論をわざわざぶち壞したのは、「匿名」氏のミス。「アンチ」のやり口を曝露したと共に、前田さんを自分逹惡質な「アンチ」の側に引込む結果となつてしまつた。それが前田さんにとつて迷惑な話でない訣がない。もちろん、前田さんがその種の印象で全てを語る側の人間か何うかが明かになる訣で、或意味、「匿名」氏は適切な時期に「蹈み繪」を用意して呉れた事になる。 投稿 野嵜 | 2006.10.11 07:28 午前 言葉の救はれ――福田恆存論に投稿された野嵜氏のコメントを全文掲載 |
926 名前:吾輩は名無しである 投稿日:2006/10/24(火) 17:32 松原の「人間通になる読書術」にこういう記述がある。 『が孔子は時に激しく怒つた男なのだ。「樂しんで以て憂を忘れ」るのみならず、時に「憤を發しては食を 忘れ」た男たのだ。』 論語の「発憤亡食」つうのは、松原が言うような「怒りのあまり食を忘れる」じゃなくて正しくは「(学問に) 発憤して食を忘れ」というのが正しい解釈。 このことは呉智英が指摘しているし、岩波文庫から出てる「論語」にも普通に記載されている。 「一部分が駄目なら全体が駄目である」という松原の持論に照らし合わせれば、「人間通になる読書術」 は駄本ということになる。 |
言葉遣ひに几帳面だつた森鴎外と異なり、夏目漱石の文章には好い加減な宛字が隨分出て來る。「坊つちやん」で云へば「瓦落多(がらくた)」「八釜(やかま)しい」「六(む)づかしい」等。それから論理性にも無頓着な所があつて、同じく「坊ちやん」の冒頭、西洋ナイフで指を切つてみせようとする插話で「右の手の親指の甲をはすに切り込んだ」とあつて、右の指を切るには左でナイフを持つ左利きでなければならず、何かの伏線かと思はせるのだが、結局物語の展開上、坊ちやんが左利きである必然性は何も無い。 「地獄の箴言」より一部引用 |