「無免許法学者」野嵜健秀氏が、相も変わらず陳腐な憲法論を性懲りもなく開陳している。
が、それに対してツッコミは入れない。
というか、入れる気にもならない。
野嵜氏は私の事を「バアタリアン」と呼んでいる。
要するに、「喜六郎は場当たり的に主張をコロコロ変える奴」と言いたいんだろうが、「バアタリアン」という称号は寧ろ野嵜氏にこそ相応しい。
それを今回は論証しようと思う。
まずは引用。
俺は、人間は信頼出來ないものだと思つてゐるから、約束で人間を縛る事は必要だと信じてゐる。
(闇黒日記2.0 「憲法に對する二つの立場」から引用)
なんて書いてる一方で、これの以前に書いた「經濟隨筆」なる記事にはこんな記述がある。
寧ろ、人間の善性に期待する木村氏の態度の方を、俺は好む。政府の統制で全てが解決すると、樂天的に考へてゐる喜六郎の方こそ、酷薄であり、最後の「一匹」の存在を無視した、言つてみれば「人間不在」の發想をしてゐると思ふ。
(闇黒日記2.0 「俺の經濟隨筆」から引用)
「人間の善性に期待する」木村氏の態度を「好ましい」と評したということは、野嵜氏も人間の善性を信用していると見なして良いのだろう。
しかし、その一方で「人間は信頼出來ない」だなどと矛盾することを平気で書くのである。
つーか、「人間の善性」を信頼してるのよ?してないのよ?
どっちよ?
場当たり的に主張をコロコロ変えるのは止めて頂きたい。
ちなみに、私は「人間にはエゴイズムがある限り、規制は必要である」とは言ったが、「政府の統制で全てが解決する」なんて言ったことないんだけど。
勝手に人の意見をねじ曲げないでください。

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