「Kirokuroの毒吐き空間」(当時の名称は喜六郎の小屋)を開設してはや3年になる。
3年の間に松原信者周辺にも色々な変化があった。
まず、例の論争史騒動でミソを付けた某経済ジャーナリストが、遅刻の震源なるブログにて、「ケインズは左翼」だの「 「介護の現場」よりも、經濟についての智識が必要です 」だのと珍自由主義的お笑い経済論を偉そうに開陳して顰蹙を買い、ネット上から消えていった。
それにともない、経済ジャーナリストのコバンザメだった森英樹も消滅した。
そんな中、相も変わらずヤミグロ日記に下らない文章を綴って得々としているのが野Qこと野嵜健秀くんであり。
そんな野嵜が、ヤミグロ日記にこんなことを書いている。
敗戰によつて、「過去のものは全て惡」――過去のものは全て破壊せよ、と云ふ事になつた。「傳統の破壞」は即「反省」と云ふ事になり、「反省のポーズを誇示する」事が「進歩主義」と云ふ「正義の態度」とされるやうになつた。假名遣ひにおいても、既存のものを破壞し、全く新しいものを「民主的」とか稱して創作する事が、「現代の日本人」のとるべき「反省」の態度であり、「道徳的に良い事」である「と云ふ事」にされるやうになつた。「現代仮名遣」は、昭和二十年より前の假名遣の持つてゐたそれとは全く異る本質を持ち、伝統から完全に斷絶した「新しい表記」である。
が、正かな派が「現代仮名遣」を批判して、傳統を斷絶した事を「惡し」とするからこそ、「現代仮名遣」派=「新しければ全て良し」派=「現代の人間は現代の時間の中で孤獨に引籠つて、しかしそこでわいわい騒がしく樂しんで、快を貪つてゐればよし」派の人々は、「歴史的假名遣も傳統を斷絶したのだと云ふ事」にして、「歴史的假名遣」を侮辱して――しかしその目的は、「歴史的假名遣派の人間を侮辱する」事にあり、その爲に彼等は歴史的假名遣を利用してゐる。Kirokuroを見れば判る通り、彼等「あたらしければ統べて良し」派=「刹那的な愉しみに耽つてゐればそれで人間は良いのである」派は、觀念よりも人間を優先する。だから觀念は全て、他人を侮辱し、自分は偉いと言ふ爲の材料に利用される。Kirokuroを見よ。Kirokuroは、觀念を利用して、他人を侮辱し、自分を誇示する事だけを目的に、「ブログ」をやつてゐる。他の全ての「現代仮名遣」派の人間も、大同小異と言つて良い。
(ヤミグロ日記 平成二十一年十月十八日 より一部抜粋)
以前から野Qを知る人なら周知のことであるが、元々野Qは「自由主義者」を標榜し、「伝統」「愛国」を唱える立場の人を嘲笑・揶揄してきた人間である。
「正字正かな」を守るのは、それが伝統だからではなくて、「正字正かな」が「論理的に正しい日本語」だからである、と唱えてきた人間でもある。
その野Qが、自説が通用しなくなったからと言って、いまさら「伝統」を云々して保守ぶりっこをするのは見苦しい。
野Qは、私がネット右翼叩きをするのを非難しているが、サミュエル・ジョンソンの格言を引用して鐵○会掲示板を襲撃したり、西尾幹二読者や白波氏を叩いて喜んでた人間に非難される謂われはない。
野Qは人様を偉そうに非難する前に、自身に他人を非難出来る資格があるのかどうか胸に手を当てて考えてみるが良い。

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