今日は久しぶりに過去の話なんだけど、大分話が飛びます。
私は、20歳で、大学生の時、強迫性障害は最悪の状態でした。
家では、家族に隠れて、かなりの時間をかけて手を洗い続ける日々でした。
でも、大学へ行っている時は、(自分が変な事している自覚があるものだから)
出来るだけ他の人が見ても、おかしくない洗う時間ですますようにしていました。
自分が納得いかない洗い方なので、
「汚い」
という感覚に襲われすごく辛かったのだけど、なんとか、それでも過ごせている自分自身がいました。
でもどうしても、人目が気になった。いくら減らしても、みんなと同じようには出来ない・・・・
女の子だから、トイレもつれだって行く事が多く、おかしくおもわれるのが辛くて、
みんなと過ごすのが苦痛で、だんだん人を避けるようになり、気がついたら、一人ぼっちになっていました。
お友達が欲しくてたまらないし、出来る環境や能力もあったのに、それに反した行為をせねばならなく、せつなくて、さみしくて、仕方なかったです。
でもね。大学生の時にも何回も思ってたんだけど、
強迫でない人でも、綺麗好きな子や、潔癖の子っているんですよね。
家での洗い方は、私は、あきらかに過剰な状態だったけど、大学での洗い方や回数は、傍から見たら、
「少し綺麗好きな子?」
レベルではないのかな? という感じかもしれないと、何度も思ったのです。
だから、そのとき何回も何回も、自分に言い聞かせたんです。
「このくらいの洗い方だったら、きっとみんなおかしく思わないよ。」
「〇〇さんだって、すごく綺麗好きじゃないの・・・・それと変わらないんじゃない?」
「このくらいなら、自分が考えている程、人は、きっとおかしく思わないよ。」
「だから、人から離れて、コソコソしなくても大丈夫だよ。」
でも、いくら自分に言い聞かせても駄目でした。
やはり、人目が気になりました。
完全に、ササッと洗えるくらいにならないと、人の前で過ごす事は出来ない(過ごす権利がない)、と、どうしても思ってしまう自分がいました。
自分が、「完全な不潔恐怖」という状態という自覚があったから、過剰に自分の行為が気になるという面もありました。
でも、今思うと、私は子供の時から、常にどんな場面でも、「自分が感じるところの(=母が望む所の)完璧でないといけないと、思い込んでいました。
だから、どう考えても、完璧じゃないと思える、手洗いの行為をしている自分は、絶対に排除される、そんな風に感じていたように思います。
私は大学卒業後働く事が出来なかったのですが、ひょっとしたら、上記のように、人目を過剰に気にしない状態にいる自分なら、少しくらいは、働く事が出来たのでは? そんな気がするのです。
よくわかりませんが、
「わたしは、わたしのままで充分ステキ」
「あなたは、あなたのままでいい」
そんな風に 考えられる自分でいたら、同じ不潔恐怖の状態でも、生活が全然変わっていたような気がします。
それが、それ以後の生活の変化にも、大分いい影響を与えていってたかもしれないなと思います。
この話は、私の完全なる体験談なので、みんなにあてはまるかどうかは、わからないですけど・・・・
結構あちこちのサイトを回っていて、(私の主観なんだけど)
私が、あの頃感じていたまでに、人の目を気にせず過ごせされている方も沢山いらっしゃって、社会に適応されている方も、いっぱいいらっしゃるように、今感じ、余計に上記の事を考えてしまいました。

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