強迫性障害ってなかなか最初その苦しさを周りの人に打ち明けられず、一人で悩み苦しんだ末に、やっとの思いで話す人も多いんじゃないかと思います。
そんな時、とにかく少しでも多く理解してもらいたくて、
「おかしいと思われないだろうか」
と不安を抱きながらも必死の思いで話すんだと思います。
そこで、取り合えず理解を示してもらえた時、
「思いきって打ち明けて良かった・・・」
そんな安堵もおぼえるでしょう。
でも、毎日の生活の中で、
「あの時、必死で話をして、分かってもらえた」
はずだったのに、ある日思いがけない、言動や反応の仕方をされて、
「えー、分かってくれていたんじゃなかったの?必死の思いで伝えたのに、全然伝わってなんていなかったんだ。やはり理解なんて、なかなかしてもらえないんだ」
そんな思いになる瞬間に出会った人も多いのではないかと思います。
実は、これは私の話だったりします。
私は家族に対しては、発病して3年後に(やっとの思いで)病院へ行くため、少しだけ打ち明けましたが、最後まで、本格的に苦しさを話せぬまま終わってしまいました。
これは、何回もここに書いたように、話せば話すほど、何倍にもなり、傷つく言動としてしか返ってこなくて、私は一人耐えるしかなかったんです。
で、薬の副作用で入院したという話を前書いたと思うのだけど、その時の縁?で、大学の養護教諭の方に話しを聞いていただく機会があったんです。
(入院の記事はここ)
私は、医者をのぞいてはじめてこの方に、自分の症状について切々と
(ほんのほんの少しだけど)話をしたのでした。
その時、私が思ったより、聴いていただけた感触を得て、
「ある程度理解してもらえた」
とすごくホッとした気分になったのを覚えています。
その後、薬の副作用が出始めるか、出始めてないかという、大学二回生の夏休み、話し相手を求めて、この方のもとを訪れた事があったんです。
本当に一生懸命打ち明けたので、理解してもらえていると信じていました。
当時、食べ物を手で触ったり、食べたりすると、手や口の周り、顔全体に及び、汚れたと感じる症状でも苦しめられていたので、食後狂ったように洗わないと生活出来できませんでした。
でも、大学では、人の目がありそれが出来なかったから、お友達と昼食をともにできず、一人で過ごすしかなく、最終的にはお昼を食べずに過ごすという生活を送っていたのでした。
その苦しさについて、切々とその方に打ち明け、
「手では、絶対に食べ物を掴む事ができない」
この食事の苦しみについては、分かっていただけていると信じていたのです。
で、夏休み心の癒しを求めて、養護の先生がいらっしゃる部屋を訪れた時です。
手で掴んで食べると、醤油や、油や、砂糖がベタッと、あきにかについてしまうお菓子を、笑顔ですすめられたのでした。
たぶん悪気もないし、普通に
「食べて」
って感じで出してくださっただけだと思います。
でも私からすると、はじめて、他人に
「おかしいとおもわれないか気にしながら」
汚く感じる苦しさについて、必死で訴え理解してもらえていると信じていただけに、
「私が、こんなお菓子を掴んで食べるなんて死ぬほど辛い事だと分かってくれていたはずなのに・・・」
すごくショックを感じたのを覚えています。
今書くと
「何だ、それくらいの事で・・・」
とも思えるのですが、この時は、よりいっそうの孤独を感じてしまいました。
そして、
「やはりいくら話しても、なった人にしかこの苦しみは分からないんだ」
そんな悲しみも感じました。
私は、カウンセリング上では、こんな二次被害を与えないよう気をつけて、一つ一つの言葉に耳を傾け続けたいなって思っています。

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