2014/1/24  22:51

大寒入りの日本から熱帯のフィリピンへ――さぞ暑いかと思いきや(その2)  国内外からのトピックス

■戦前までの植民地時代のマニラは、東洋で最も美しい都市のひとつといわれていましたが、第二次大戦により壊滅的な被害を受けました。これは我が国の首都東京都同じ状態だったのでした。そして、戦後69年を経過した今日、マニラと東京を比較してみると、その後の、フィリピンの苦悩が偲ばれるのです。


 日本は敗戦国でフィリピンは戦場国という違いはあるにせよ、首都がガレキと焼け野原と化した戦後は、日本もフィリピンも同じように始まりました。これは他のアジア諸国には見られない共通点です。

 中国や朝鮮半島、ベトナム、インドネシアでは、戦後、独立戦争や内戦を経ていますが、日本とフィリピンでは、戦争末期に国土が破壊しつくされ、大勢の市民が犠牲になり、戦前の社会体制が戦争で終結したという意識が強く国民に焼きつけられました。

■しかし、戦後、両国は異なる歩みを始めました。それでも1945年から1950年台前半までは、両国は米国の影響で復興の足がかり掴もうとしました。日本の場合は、朝鮮戦争による特需が大きく戦後経済にカンフル剤となりました。他方、フィリピンは、戦時中の物的損害に対する補償という意味で、米国が1946年フィリピン復興法で総計6億2000万ドルを交付するなどしたため、1950 年代までのフィリピンは復興援助に依存して表面的には繁栄していました。

 戦後のフィリピンは、マルコス大統領による1972年の戒厳令布告までの戦後民主制の時代(第3共和国])、1972〜1985年までのマルコス独裁(第4共和国)、1985年から現在に至る民主制への復帰(第5共和国)の三つの時期期を経て来ました。

 このうち1960年代までのフィリピンがアジアで「日本に次ぐ」経済的に豊かな社会であったのは事実です。1966年12月19日には、フィリピンにアジア開発銀行が設立されました。これはアジア・太平洋における経済成長及び経済協力を助長し、開発途上加盟国の経済発展に貢献することを目的に設立された国際開発金融機関で、日本と米国が仕様な出資国です。筆者も18年前に訪れたことがありますが、モダンな建物の中に多数の多国籍の職員が勤務している様子に圧倒されました。

 ところが、フィリピンの復興の息吹は、その後急速に経済発展した他の東アジア諸国の陰に次第に埋没していったのでした。その原因として、フィリピン全土、とりわけ首都マニラでの戦火の影響を無視するわけにはいきません。

■かつて、東洋の真珠と謳われたマニラは第二次大戦末期の1944年10月20日に米軍がレイテ島に上陸して本格的な地上戦が開始されました。翌45年1月4日、米軍はルソン島北西部のリンガエン湾に上陸すると、直ぐに南下しマニラを目指しました。太平洋戦争の緒戦の1942年3月11日に日本軍の攻撃を受け「I shall return.」の言葉を残してコレヒドール島から脱出したダグラス・マッカーサーにとってマニラ市の奪回は作戦というよりメンツの為でした。

 同年2月3日、日本軍の不意をついて米軍がマニラ市を南北に分かつパシッグ川の北岸を急襲・占領したのを契機に「マニラ戦」が始まりました。この戦いで日本軍は山下奉文将軍指揮下の陸軍主力が北部ルソンの高原都市バギオに退却した後も、市内に残留したマニラ海軍防衛隊と幾つかの陸軍部隊が、パシッグ川南岸のスペイン時代の城塞に囲まれた旧市街イントラムロスから市中心部エルミタ・マラテ地区のビル・民家を陣地化して徹底抗戦しました。

 これに対して第37歩兵師団を中心とする米軍は、兵員の損害を最小限に抑えるために重砲火による事実上の無差別攻撃で街区を次々と破壊していきました。この戦闘は日本兵が完全に掃討されるまで4週間にわたって続き、アジアでは最大の市街戦による都市破壊を引き起こしたのでした。

■これを上回る大規模な市街戦は、第2次世界大戦全体を見わたしてもスターリングラード、ベルリン、ワルシャワくらいだと言われています。この戦闘で日本軍はごくわずかの投降者をのぞいて全滅(1万6665名の遺体確認)し、米軍戦死者は1010名、負傷5565名と記録されています。そして、最大の犠牲者はマニラ市民でした。戦後フィリピン政府の算定によれば、1939年の総人口約1600万人に対して戦争犠牲者は全土で111万人余りにのぼるとされています。

 このマニラ戦では、米軍による無差別空爆と、抗日ゲリラ対策として行われた日本軍による市民への殺戮が行われ、マニラ市民は双方の戦闘の犠牲になったのでした。このため、 「マニラ戦」は単に首都の破壊だけでなく、東洋の真珠と謳われた多国籍的な魅力に富む生活様式も抹殺したのでした。

■そのため、フィリピンの戦後復興は、日本に較べると極めて屈折したものになりました。前述のように、戦後1960年代までは順調に発展するかに見えたフィリピンでしたが、マルコス時代の停滞に伴い、発展する間もなく、多くの貧民が流入し、多数のスラムが形成されました。イントラムロスの北側のトンド地区は、最近までマニラ首都圏のゴミ集積地であり、スモ―キーマウンテンに象徴される貧民街でした。現在、トンド地区のスモ―キーマウンテンは閉鎖されましたが、マニラ郊外の数か所にゴミ集積地が分散移転しており、スカベンジャーと呼ばれる人々がゴミの中から有価物を仕分けて僅かな収入を得て生活しています。

■かつてエルミタ・マラテ地区に居た富裕層は、戦後、スラム化して治安の悪化した旧市街地を放棄して、現在の新都心地区にあたるマカティ地区周辺に巨大な邸宅街を構築していったからです。

 近代的なビルが並び多くの企業が集まっているマカティ地区は、マニラのウォール街とも呼ばれています。中でも中心はアヤラ・センターです。スペインの植民地時代の流れをくむスペイン人のアヤラ一族がこの地区で商売を成功させ、土地を所有していたことがこの地の発展のきっかけになっています。

 アヤラ・センターにはマニラ随一の規模を誇るショッピング・モールがあり、グロリエッタ、ランドマーク、グリーンベルト、ルスタンスなど外国人観光客にも知られる商業スペースとなっています。

 このうちルスタンスという高級デパートは、かつてマルコス大統領のイメルダ夫人の御用達で、かつては売上の1割をイメルダ夫人が占めたと言われています。イメルダ夫人は依然として健在で、驚くべきことに84歳の今も下院議員をしており、息子と娘も政治家として活動しています。

 出身地のレイテ島タクロバン市は、イメルダ夫人の出身地であり、現在でもマルコス大統領関係者の影響力が強い地域です。現在タクロバン市長を務めているロムアルデス氏もイメルダ夫人の親類だということです。

 ちなみに、このタクロバン市は、昨年11月に台風30号が襲来し、未曾有の被害を受けたことは記憶に新しいところです。現地の識者によれば、もしあの時、「ツナミ」襲来という警報を出せば、もっと被害が少なくて済んだ」というくらい、想像を絶する高潮でした。

■このマカティ地区で、今盛んに建設ラッシュに沸いているのがフォート・ボニファシオです。ここには以前フィリピン陸軍の基地がありましたが、米軍が完全撤収した1992年に設けられた基地転用開発庁(BCDA)が、マカティの商業地区開発を手掛けたアヤラ・ランドとエバーグリーン・ホールディングの財閥系不動産企業にボニファシオ基地跡の開発権を入札方式で移譲しました。以降、二社はBCDA傘下のフォート・ボニファシオ開発公社(FBDC)とともに土地開発を担ってきました。

 ここには日本人学校やアメリカンスクールなどがあり、既に渋滞がひどくなっているマカティ地区よりもさらに最先端の近代都市空間として急ピッチで開発が進められています。

 高台にあるため洪水の心配がなく、水道も24時間利用でき、停電に備えて自家発電設備も完備しており、マニラで付きものの洪水、断水、停電とは無縁の場所となっています。

■こうしてマニラは、最先端のエリアがどんどん開発されている一方で、スラム街に流入する貧しい人たちの数も一向に減る気配がありません。

 そのため、最近の国連の発表では、フィリピンの2014年の国内総生産(GDP)成長率は6.2%と予測しており、これはカンボジアとラオスを除く東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国ではトップとなっています。ちなみに、ミャンマーが6.1%で比に続き、ベトナム5.7%、インドネシア5.6%、マレーシア4.8%などと続いています。

 他方で、2013年7月に失業率が7.3%に悪化しており、労働人口が増加するなかで、好調なマクロ経済が十分な正規雇用の創出につながっていないことを示しています。

■こうしてフィリピン経済の二面性が課題となっていますが、成長するフィリピン経済とともに、我が国からの投資も活発化しており、最近は、ユニクロ、ワタミなどが進出しています。町を走るタクシーも、以前はボロボロで床を踏み抜かないように乗車していましたが、今はピカピカのトヨタVIOS車が走り回っています。

【ひらく会情報部海外取材班・この項続く】
0



トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ