追憶18 優しいお兄ちゃんとの出会い
(私は高校生、弟は4年生になっているはずです)
これは私の幼少期の体験と心情を書き綴ったものです
お時間のある時にでも読んで下されば嬉しいです
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今までのお話がすべて分かります
*小学校1年生で弟が1才の頃、父母と別れて祖父母や
叔父一家のお饅頭屋(明治屋)さんに預けられ
その後また環境が変わり祖父母と下宿屋さんの
生活で次は弟のヨシ坊が父に引き取られ二人は
バラバラになり、それから今度は私は母に
引き取られ二人の生活が始まりました
追憶17の続きです
毎晩相変わらず窓を開けて星を見つめていた
冬の夜空は特にキラキラしている
最近は少し遠くからギターの音色が聞こえていた
私の好きな外国のフォークソングだった
あちこち見回すと少し遠い家と家の間からだった
弾いている人を見ると窓辺に腰掛けている横顔が
ちょっと寂しそうで、それからは毎晩8時頃に
なると窓からその青年を見ながらギターの
音色を聴いていた。
秋の夜、少し遅かったけど9時を過ぎてお風呂屋に
行った、帰りの道は街灯はあるけど途中に空き地があって
そこの前だけは街灯もなく真っ暗で怖かったので
洗面器を抱えて走った、石鹸がカタカタなった
ある夜、空き地を通りかかった時に後ろから急に
羽交い絞めにされナイフを目の前に出され
「静かにしろ!殺すぞ!」と低い声で言われた・・・
あまりの恐怖で声も出なくて必死で手を振り
払おうとしたけど空き地に引きずっていかれた
そこに運よく向こうから通行人がワイワイと来たので
私は思いっきり「助けて!」と声が出た
犯人は慌てて逃げて行った、後ろ姿は中年のオッサン。
私は震えながら家に入ったけど怖さで泣いてしまった
お母ちゃんに言えば心配かけるから黙っていた
悲しくなって窓を開けて星を見たらギターのお兄さんが
こちらを見てくれた、私は泣きながら涙を拭いた。
次の日の夜はお母ちゃんが帰ってからお風呂に
行こうと思っていた。
すると窓の外からギターの音が聴こえてきたので
覗くと、あのお兄ちゃんが窓の下で私を見上げて
歌ってくれていた心細かったので嬉しかった
思い切って玄関の外へ出たらお兄ちゃんがニコニコ
して立っていた
すごく背が高くて細くて目がキラキラしていた
お兄ちゃんは自己紹介をしたので私もそうした
すると一気に涙が出て来て下を向いてしまった・・・
お兄ちゃんは頭を撫でて
「どうしたんや?」と
聞くので私は空き地での事を話しをしたら
「そうやったんか、怖かったやろぅ?今日は
お風呂はまだなんか?
行くんやったらボクも行くから用意してくるわ
Nちゃんも用意しておいで」と
走って帰ってすぐに迎えに来てくれた
「ゆっくりお風呂に入りやぁ、帰りも送るからな
外で待ってるからなぁ」
それからは毎晩8時に誘いに来てくれた
一緒にジュースを飲みながらすぐそばの公園に行って
ブランコに乗りながらいろんな話をした
ヨシ坊との別れや学校でのことなど、友達との事。
そのうちお兄ちゃんの仲間も公園にくるようになり
ギターでみんなで歌ったり楽しかった。
少し太ったお兄ちゃんが
「Nちゃんのことは聞いてるで、妹みたいな子やから
みんなで守ってやって欲しいって言われてるんや」
みんな優しくて明るい人ばかりだった。
お兄ちゃんたちは近所の皮革商店でそれぞれ仕事を
していた、5才ほど年上だった。
高2になってからはケイコおばちゃんが大阪北区で
夫婦で喫茶店をするようになったので夏休み、冬休みは
手伝いに行った
カップを洗ったりトーストにバターを塗ったり
お客さんにお水を持って行き注文を聞けるようにもなり
ケイコおばちゃんは明るくてよく喋りよく笑うので
一緒にいると楽しかった
自分に子供が生まれないので私をすごく可愛がってくれ
服を買ってくれたり、映画館なんかにも連れて行って
くれた洋画の有名な作品は全部ケイコおばちゃんが
観に連れて行ってくれたのでたくさんの思い出があるし
叔父さんも優しい良い人だった。
ケイコおばちゃんはハイカラな人で服はいつも舶来の
オーダーメードで結婚前は外資系の会社に勤めを
していて英語もペラペラだった。
本当は外人さんと結婚したかったといつも言っていた
でもおばあちゃんに反対されたし自分は太っていて
美人でもないから諦めてお見合いしたそうだ。
次にお母ちゃんはTV(白黒)を買ってくれた。
それからしばらくして電話機がついた(黒のダイヤル式)
明治屋の電話番号は覚えているので思い切ってかけた・・・
ヒロコおばちゃんが出て驚いていてお互いに泣いて
しまった
お母ちゃんにはおばあちゃんや叔母さん達にも
電話番号を教えてはいけないと言われたけど
教えておいたので翌日はおばあちゃんからかかってきた。
おばあちゃんは電話の向こうで泣いていた・・・
「かわいそうに一人で毎晩留守番してるんやなぁ
おばあちゃんのとこにおったらそんな寂しい思いを
させんでも良かったのに悪かったなぁ・・」と
言って泣いた
それからは時々電話をしたけど、お母ちゃんは知っていた
みたいだけど何も言わなかった。
学校はお弁当だったけど自分で作って持って行った
クラスの女子はみんなお母さんが作った美味しそうな
お弁当ばかりで、海苔巻きなんかもあって
こういうのを作ってくれるなんて羨ましかった。
時々おばあちゃんが電話をかけてきてくれて
様子を聞き
「かわいそうになぁ、そばにいてやれたら
お弁当くらい作ってやれるのになぁ・・・
さみしぃ事はないんか?」
と言っていつも心配してくれたのが嬉しかった。
高校2年生の半ば頃におばあちゃんから電話があり
お父ちゃんが危篤やから病院へ来て欲しいと言われて
お母ちゃんに言うと
「行きたかったら勝手に行きなさい」と言われ
迷ったけど会いに行った。
病室に入るとお父ちゃんが寝ていて、そばにおばあちゃんと
叔母ちゃんたち、ヨシツグおじちゃんが来ていた。
お父ちゃんのそばに行くと私の手を握って
か細い声で
「N子、お父ちゃんが全部悪いんやでぇお母ちゃんを
責めたらあかんねんでぇ・・・・」
(この意味はその時よく解らなかったけど
大人になってその意味が分かるような気がしました)
お父ちゃんの横でおばあちゃんが一生懸命お経を
読みながら数珠でお父ちゃんの頭を撫でていた
(父は、くも膜下出血で倒れたそうです)
お父ちゃんはおばあちゃんに
「頭が痛いからお経はやめてくれー」と言った
それから間もなくお父ちゃんは私を見つめながら
死んでしまった・・・でもあまり悲しくはなかった・・・
私はヨシ坊がいないのが気になっていた・・・。
ここで父の事をちょっと書きます
父は大阪外国語大学を出て進駐軍の通訳と翻訳の
仕事をしていました、英語の弁論大会で優勝するくらい
人前で喋るのが得意でした。
優しくて落ち着いていて紳士でした(私の記憶では)
お饅頭屋さんの長男のためにやむなくお店を継ぎ
母と一緒に祖父母と同居しました。
でも商売人が合わなくて、母も商売人には合わず
祖母とも関係が上手くいかなかったようです。
弟にお店を譲り、父は通訳の仕事をし、輸入品を扱う
会社を作りましたが上手くいかずその後も何度も会社を
興しては失敗していていたようです。
母ともあまりうまくいかなくなり別れました。
*ヨシ坊は5年生になっているはずです
それから一ケ月ほどしてからお母ちゃんがやっと
ヨシ坊を引き取りに堺へ行きました
でもまさかの弟の姿でした
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