夜中に起き出してつまみをこさえて(湯引きしたささみを万能ねぎと塩・ごま油で)ビール飲んでるのですが、
ネットで古本を売っている親父がモソモソ活動してて邪魔くせえ。
ミクシーにみっつくらいの名前でやつは登録してるみたいです。
床の間の全体及びお茶の間の半分が売り物(売れない)の本で埋まっているんです。
どうでもいいですね。
本が全部早く売れて下さい。
それにしても曲ってどうやって作るんだっけか。
年越しライヴまでに曲ができたいんだよわたしは。
今年は全然曲を作れてません。
というか、音楽をあまり聴いていない気がする。
でも今年はぼーっとしてボソボソ過ごしていたかと言うとそうでもなく、
なんだか美術寄りな年だったかな、と思います。
粟津潔観に行ったのも今年だよな。
アロイーズ、刺繍のやつ、国芳、芳年、デルヴォー、若冲…
まあ偏ってるけど。
こうして見ると自分が保守的な人間だというのがよくわかる。
破裂した、可能性のひらけた構成・概念のものではなく、
生み出す者の体臭が濃く、デザイン的に派手で、ぱっと見がまず魅力的。
コンセプチュアルに新奇なのではなく、個人の狂いがかっこいい作品というか。
そういうものばっかりを選んで観ている。
たぶんそういうものの快楽をたっぷり享受することにしか興味がないんだ。
それはわたしにとって喜ばしいことであります。
これらがゆっくりろ過されて、曲になってくれればいいけれど、
そういうけちくさい目論見で素晴らしいものを観るのはやっぱり嫌かも。
ところで、「表現したいこと」があって、何かを作るんだと思いますか?
それはまっとうな筋道すぎて、なんかつまんなくないか?
そんなすがやかに、「動機」→「結果」みたいに、みんなやってるもんなの?
もっといろんな要素が、階層が、作用が、関係してると思うけどなー。
というか、それは作っているものの実感からこれこれこうである、と
語られるべきであって(語らない方がかっこいいんだけど)、
それを受け取る側・関係者ではあるけど張本人ではない人間が言うことではないと感じます。
えーと。
受け取る側は、発する側の「表現したいこと」をすっ飛ばして、
感じたもの・感じたいものをその作品の印象として抱き、語る自由がある。
けれど、発する側の「表現したいこと」その他の意図に関して、
自分が成り代わって語ることはできないんだと思います。
まわりくどいこと書いてごめんなさい。
それについて考えさせられることがあったもので。
ねます。