松本市美術館の草間彌生の展示はすげかった。うわあ飲み込まれるぅ!!って何度も思った。
生体の内部の顕微鏡写真のようでもあり、星雲のようでもあるドットや網の集合体、人の目や女の横顔など繰り返し繰り返し描かれるモチーフ。ミクロとマクロがくるくる平気な顔して入れ替わり、無限に拡がり無限に収斂する渦の只中に観る者を巻き込む。
ちょうど読んでいた中沢新一の著書で繰り返し出てくる、「有限・生・可視の世界と無限・死・不可視の世界の境界膜を生きている者」をまさに草間彌生に見た。
こちらとあちらを行き来できるのは「女の性」をもつものだという。これは生物学的な性別が絶対というわけでなく、意味や価値やモラルで世界を区切り、光を当てていくのが「男の性」だとすれば、それとは逆のベクトルをもつ、闇を司る性質のことをここでは「女の性」と呼んでいる。女の性は意味付けられた世界の中で、無や死の世界との境界側に押し出されている。
女の性はこちらとあちらの境界膜上で振動できる流動性をもつ。
このような記述を読んだ後で彌生をみたものだから、ああそれだ、彌生にぐわっとやられるのはきっとそこなんだ、って思ってしまった。
前にアネットメサジェというフランスの女性アーティストの展示をみたことがあって、汚い奇形ぬいぐるみの作品とかぞわぞわきてよかったんだけど、かなりフェミニズムアート的な作品が多く、男根と戦争を結びつけたり、男根のモチーフを萎えさせたり、記号的でわかりやすい表出が行われていた。記号(意味とか政治と言い換えてもいいと思う)に記号で対抗することの限界みたいなものがそこにはあるんじゃないか。
中沢新一的に言えば男の性について男の性の文法で反論するというか。反論、とは違うかもしれないがうまい言葉が見つからない。
草間彌生のソフトスカラプチュアという手法は男根恐怖から生み出されたものだという。椅子に、机に、靴に、男根状の突起物がうじゃうじゃ生えている。これは説明でもなければ反論でもない。
恐怖するものをかたちにして、しかも無数に生やしてしまう。この表出の中にはあちらとこちらを行き来するダイナミズムと、闇をも含み込んだ豊穣さがあると思う。
ぜーはー。長く書きすぎた。
えーと、相方が誕生日プレゼントにと、国産のからすみをくれました。うめー!リーべちゃんいいやつ!
三回目のカレーを作った。本見ながら、分量通りに。しかし何かの具合でそこそこにしかならなかった。わたしの好きなカレーと違った、つうのもあるが。でも基本の大切なとこは学べた気がした。
次カレーはこうしたら鉄板なのでは、と思うのをやってみます。
カレー難しい。
