数年ぶりに、舞踏家・大倉摩耶子さんのソロ公演をみた。
熊楠や粘菌や中沢新一のこと考えてたら、
舞踏みたいなーと思ったのだ。
中沢新一が80年代に書いたものによく出てくる、
「境界膜上で振動するもの」が舞踏の身体に当てはまるのではないかと思ったからだ。
土方巽の有名な言葉「舞踏とは、命がけで突っ立った死体である」というのもそういうことではないかと。
境界膜とは、生と死のさかいめのことだ。
生まれた瞬間から生命は死への重力に逆らえず落ちていく。
以下、「野ウサギの走り」から引用。
『生とは、死とまったく違う現象でも、死と敵対しあう現象でもなく、
そのぎゃくに、遠い迂回路をとおって死にたどりつこうとする
パラドキシカルなプロセスそのもののことである。
死の直接性におちこんでいくことの誘惑をかわしつつ、
ねばり強く続行されるひきのばし、差延(ディフェランス)の運動。』
この差延の運動を保証するのが「膜」だという。
『あらゆる生命現象が、死の直接性と、薄い浸透膜状のものを隔てて
「軽く」触れあいながら、このひきのばしを続けている。』
『あらゆる幻想をそぎ落としたところで出会う、裸体の生は、
しごく薄い皮膜によって死の直接性から隔てられているにすぎない、
まったく両義的な現象にほかならないのだ。
生が同時に死であり、死のなかに生があるような生。
ファルマコン(毒=薬物)としての生。そのことがわかってしまえば、
生物的な現象としての死は、すこしも恐いものではなくなる。
見知らぬ闇のなかに、連れ去られてしまうのではない。
ただ、ほんのちょっと、闇を越えるだけなのだ。それもどこで決定的な移行がおこったのかわからないようにして、そっと踏み越えるだけだ。
「差延のプロセス」である生に執着する必要もないし、また死をおそれたり、それを意志や信仰の力でのりこえたりするのも、おかしい。』
この文章は井上有一という人の「書」に寄せられたものだ。
生の領域で生成する意味やフェティシズムを解体して
死の領域にあえて肉薄しようとし、その境界上で踏みとどまる「書」であると、
中沢新一は言う。
この「踏みとどまり」は舞踏にも言えることだ。
生活の中でからだがおこなう機能的な動きや、
意味をかたどった振り付けを削いでいき、
からだの動きがほとんど意味を成さなくなるようなことろまで迫っていく。
そのやり方は、からだを追いつめていくようなやり方だ。
だから、舞踏の身体はいつでも苦しげだ。みているほうも疲れる。
しかしそこには、生命の多様なありようとでも言うべきものが
たちあらわれている。
死の方へ迫っていき、死んでしまわないで、踏みとどまっているその
ぎりぎりの一線上に、また薄い薄い膜の表面に、
生というものがあらわれる。
生と死の境を遊ぶ自由さのようなものだろうか。
からだをニュートラルな、楽なところ、
呼吸のしやすいところに持っていくのではなくて、
ものすごく変な圧をかけて不自然な動きをからだに強いることで、
精神状態だけが境界を遊ぶのではなく、
肉体じたいがその自由を獲得している、ように見える。
だから単なる個人の自己鍛錬ではなく舞台芸術としてあるのだ。
そういうからだをみたい人がいるからである。
また、狂気についても同じようなことが言えるのではないか。
狂いに肉薄する、でも狂ってしまわずに、踏みとどまる。
「正気」というもの自体が曖昧なものだが、
舞台上であらわれるあの独特の集中は、
日常生活の中ではかなり異質だ。狂いといっていいと思う。
舞台の上でだけ狂い、また戻ってくるのだ。
だから舞台をみにいく価値がある。
大倉摩耶子さんのおどりはそこに、
「おんな」が加わる。
記号としての「おんな」も、生物としての「おんな」も、
大倉さんはおどりのなかで遊び、見せつけたり壊したりと
自在にしている。
前にも書いたかもしれないが、「おんな」は
闇に、死に、無に、より近しいのである。
舞踏をみるとこのように頭の中がうるさくなる。
しかし、後で思い出すと、
とても静かな、しんとした、充実した時間に思われる。
「命がけで突っ立った死体」しか知らなかった時は、
ストイックすぎて疲れるな舞踏、ってやや思ってたけど、
「境界膜上で振動する」というイメージでみたら、
どこか軽さ、自由さを感じて、よかったです。
ああやってうずくまってふるえて激しく呼吸して汗で光っているとき、
彼女のからだは誰よりも突出した自由さを獲得して
あちらとこちらを行き来しているんだ、と思ったら。