ルーシー・リー展、す、す、素晴らしかった…
焼き物って今までほぼ興味なかったのだ。
博物館行っても壷のコーナーはほぼ飛ばしてたし(縄文式とか、絵や色
やかたちのきれいなのは別)、
「陶芸家」っつーとロン毛作務衣のうさんくさいおっさんや
片岡鶴太郎の絵っぽいヤな感じがイメージされるし、
なんでも鑑定団とかみてても焼き物になると全然良さがわからないし。
そして「目利き」の重苦しさ。目の悪いやつはどっか行け、的な。
あと川上弘美か江國香織の小説に書いてたと思うのだが、
主人公の友人が自分で焼いたマグカップでコーヒーを飲むというのを、
主人公が「なんかやだ」って思う場面。
まさにその感じ。
「ちょっと無骨でゆがんじゃったりしてるんだけどそれも味」みたいな
日曜陶芸家にありがちっぽい安い価値観(勝手に想像してるだけだけど、
ありますよね、実際)がいただけないのだ。
そんなものとは、全っっ然関係ありませんでした、ルーシー・リー。
まず、薄い。ぱりっとした薄さがとてもきれいで、透明感があり、
「ちょっと無骨だけど(以下略)」の安さなど微塵もない。
かなり初期のころは厚口のものも作っていたそうなのだが、
それ以降は薄く、シンプルだが特徴的なフォルムのものをずっと作っている。
彼女の作品はほんとうにかたちが美しい。
底の直径が小さく、そこからかなり大きく広がっていく、
朝顔みたいなかたちをした、足が高い、少し不安定なようにも感じらる鉢。
球形や紡錘形や筒型の上に、細長い首と朝顔形のひらきがついた花器。
完全な円ではなく、少したわめて楕円にしてあったり、
口が水平でなくゆるく高低をつけていたりする作品が多いのだが、
そのことで変化や動きが生まれている。
「ちょっとゆがんじゃってるけどそれが味」というようなことでは決してなく、
きちんと上品に計算されているのだ。
それから色と模様。
ぱきっとした黒、メタリックな茶、タンポポのような黄などを
モダンでシャープに使ったり、
淡いにじむようなピンク、深い青、きよらかな白、淡い淡い、ムクドリの卵みたいな
うすあおみどり、などを組み合わせて、
水彩画のような淡くて繊細な色を出したりしている。
色の違う粘土を練り合わせてマーブル模様みたいにしているのもあった。
彼女は釉薬の実験に余念がなかったらしく、
詳細な釉薬のレシピノートが残されている。
釉薬って何からできてんの?と思ったら、そうか、鉱物だ。
それが熱で反応して色がつくのね。
マンガンや酸化鉄やリンや。
それをあれこれ実験して、計算して、あんなうつくしい色を作ってた
ルーシー・リー、かっこいい!理系!クール!
作品の肌の質感も、つるつるの艶かしいのから、さらっとマットなのや、
気泡がたくさん入ってザラっとしたの、ザラッというよりはボコボコなのまで
多様にあった。
彼女の作品の特徴のひとつらしい、針でつけられた模様。
狭い間隔で、交わらないように細かくつけられた線のかっこよさ、繊細さ。
真っ黒の肌にこの線が白くついてたりすると、たまらなくクールなわけさ。
手描きの線だから、クールだけど冷たくはなくゆらぎがあってあたたかい。
彼女の作品をみているうち、自然物や自然現象が連想され始めた。
あさがおの花(いや、ひるがおかな)、雨に濡れた石の肌や苔、
みずたまり、波紋、雨、影、ひなた、鳥の卵、うっすら緑がかった白い花、など。
繊細でにじんだような色の作品は特に、水っぽい連想をさせる。
だからこの季節の生命に満ちた雨がとても似合うなあと思ったのだ。
また、白い花器のシリーズは宇宙人(知らんけど)みたいだった。
つるんとしていて、あまりに白くきよらかで、変化に富むフォルムで、
それがぱっと目に入った瞬間、地球外生命体に遭遇したような、
不思議な気分になるのだ。
なんだろうね、自然の中に既にあるものはもちろん、
もっと未知のうつくしさまでも、
うつわにあらわれているというのか。
しかも、ぱりっと、やや硬質に凛と澄んで、
あくまでもうつわという形式の中ですっくと立って。
ちょっと泣きそうになった。
インタビュー映像が流れていて、彼女が80歳とかそのくらいの時のだったと思うが、
ものすっごきれいでかわいいばあちゃんなんだよ。
ろくろを回して粘土に手を添えると、魔法のようにあれらのかたちが
あらわれてくる。
ろくろを回す時彼女は小刻みに横に首を振っていた。
リズム取ってんのかな。かわいかった。
焼きあがった作品を、「もっと広がりが欲しかったわ」と、
叩いてみた時の音がとても澄んでいて、薄くて硬い肌を思わせて、
なんだかひどく印象に残っている。
ああ行ってよかった。
さてここからは性格悪い話になります。
金曜は夜20時まで開いているということで、
とてもお客が多かった。人気な、ルーシー。
客層は女性がやはり多かった。子供が全くいなくてよかった。
でだ。わたしが目をつけた客。
黒縁メガネ、白髪交じりのおかっぱ、おんなおんなしてない、やや「個性的」な服のまあまあ若い女。たぶん若白髪。
メガネおかっぱ変な服、つーとお前もそうだろ、と思われそうですが、
わたしは髪切って変になってからは極力結って団子にしてるし、
六本木にルーシーリーを見に行くという気分を盛り上げるためにこの日は
細身のジーンズにセシルマクビーの白いぴちっとしたTシャツ(ピンクパンサーをおされな画風にしたプリント付き)というシンプルないでたちだったからよ!
で、その女は、美術系の学生かなんかなのか、
メモ帳を持ってるわけですよ。美術館行くとメモっ子は割といるよね。
わたしは「こいついかにもそれっぽいな」と悪意満々で近づき、
「何メモってんだお前」と、後ろから覗き込んだの。
そしたらそこには、でかくてクセのある、つーの?
飲み屋のオススメメニューをバイトの若い女の子が書いた感丸出し、
って感じの字、わかりますかね、ああゆう字だよ、ああゆう字で、
「ルーシーリーの作品は針仕事みたいな」
って書いてあって、図で説明をしてたんだな。
おい!こら!それ、模様つけるのに針使ってるからじゃねーか!
確かに、女性の仕事だなって感じられる面はあるよ。
細やかで、淡々としてて。
だけど、釉薬の実験とかさ、すぐルーシーだ!ってわかるフォルムとかさ、
もっと深い試行錯誤とか突出した才能とか、静かなダイナミズムとか、いろいろあるでしょう。
「針仕事みたいな」って、なんかとても浅い見方なんじゃないのかそれは。
いや、針仕事にだって深い試行錯誤(以下略)はあるのだ。あるけど、この「針仕事みたいな」って言いっぷりは、ぜったいそんなこと考えてない。
いや、感じ方は個人の自由だからとやかく言うまい。
わたしが言いたいのは、
「メモは小さい字で書け、そして人に見られないよう気をつけろ」
ってことです。
そんな堂々とねえ、でかい文字で書いて、他人に見られたら恥ずかしいじゃないか。
そういうあれはねえのか。自分のメモ内容に恥はねえのか。
というわけで、「メモ女」というひねりも何もない仮称をつけ、
ルーシーのうつわにうっとりするあいまに
「やつはどこだ」とチェックしたりする、腹黒さに余念のないわたしだった。
最後にまた近くに来たから、「どれどれ」と覗き込んだら、
「モダンと古代の」
なんとか(読み取れず)
って書いてあった!どうせ続きは「融合」か「共存」だ。
うっかりわたしも言いがちなフレーズっぽいけど、
そこは言わないように気をつけて、
やっぱりこいつ浅い、
そんなことメモってどうすんだよ、フレーズなんか既にあるものなんだから
メモる必要ねえだろ、
と腹の中で毒づきまくって会場を後にした。
ごめんねメモ女。
フレーズだらけのレポート書けたかね。
ルーシー・リー展は明日まで新国立美術館でやってるから、
行ったらいいと思います。