ツイッターにいろいろ書いてたんだけど長くなるからこっちに書く。
死の側から筋道つけて生を限定するのが宗教だとひとまず言えると思うのだが、死を観念として捉えている以上、つまり人間である以上は、程度や様式の違いこそあれ、生のあり方は死の側から限定されているよね。
死を観念として捉えない、つまり死を恐怖しない生物の生は、物理的な死にしか限定されないわけだけど、人間には物理的な限定だけではなくて、いつかは死んじゃうんだから好きなことしよーとか、人にやさしくしよーとか、名を遺そうとか、どうでもいいわとか、そういう「生き方」の限定がついてくる。
宗教の特徴はそこに筋道をたてること(特に倫理の方向に振れている)、そして救済のシステムが入ってくることだと思う。それが悪い方向に作用すると思考停止に陥ってしまい、さらにはそれを利用して金を巻き上げたり悪事に加担させたりするやつまで現れてくる。そこで宗教のイメージは悪くなってるし、宗教にドはまりしてる人はなんだか寒いのだ。自分の正しさを疑わない感じが。
個人的には「宗教」より「信仰」という言葉の方が好きだ。そして信仰は、もっと素朴かつアナーキーなものであって欲しい。
たとえば南方熊楠は真言密教をベースに自分の思想を立体的に組み立てた。
思いっっきりはしょると、人間が「世界」つまり自分の外部として捉えているのは、実は内部でしかない。人間の知覚に反映したものでしかない。しかし、内部の働きだけでこの世の存在を理由づけることはできない。
人間はどこから来たの?という問いに、お母さんの子宮からだよと答えても、サルが進化したんだよと答えても、本当に問いに答えたことにはならない。「なぜこういうふうになったのか」ということを、人間の認識内の科学や倫理で説明し切ることはできないのだ。
そこで、決して触れられないと分かっていながらも「絶対的な外部」が想定される。この「絶対的な外部」を、熊楠は「大日如来」と呼んだ。「世界」とは、大日如来の不可思議な作用が、人間の知覚に反映するものとして顕現した現象群だ。
確かデカルトも似たようなこと言ってた気がするけどどこかが違うんだよ(うろ覚え)。
んが、それを「不可侵の神が人間を作った」と言ってしまうのは乱暴でいやだ。人間中心主義的だから。「大日如来」というのは別に神仏ではなく、「絶対的な外部」に便宜的につけられた呼称なのだ。
死を恐れ、存在の意義を問う理性(?)が人間に芽生えたのと同時に、その理性は存在の根源には触れられないというジレンマが生まれてしまった。欠陥品なのだ。少しよかったのはそこに、「絶対的な外部」を想定する想像力、というパッチが当たっていたことだ。
だから、知能や理性があるからといって人間があらゆる生命体の優位に立っていると思うのは間違いである。
熊楠は、この世を存在せしめているものを「大日如来の摩訶不思議」と呼んでいた。この世の内部で起きていることをいくつかの要因に抽出し、それぞれの作用を「不思議」と呼んだ。それは謙虚さのあらわれだ。熊楠は膨大な文献を読み動植物の採取をし、たくさんのことを明らかにしたけれど、それでなお世界を「不思議」と呼んだのだ。
信仰ってのは、人間が謙虚でいるためのものだと思う。
つづく