「『セックスワーカー』とは誰か 移住・性労働・人身取引の構造と経験」 青山薫
大月書店
女性が売春に従事することを余儀なくさせられるのは、家父長制の下で男性への従属と資本主義の下での持たざる人々への搾取という二重の抑圧によって、生活するに足る選択肢が奪われた結果であり、今や世界中に性奴隷制度がネットワーク化されていると考える人々がいる。
一方では、売春は財政的基盤を持たない人々にとっては実際的な選択肢であることが避けられないのだから、性奴隷制とは区別される正当な労働(セックスワーク)であると言わざるを得ない部分もあると考える人もいる。
フェミニズムの中にも売春をどうとらえるかに関して二つの見方が対立している。確かに本人にとって半ばだまされた形で「売買」されて、あずかり知らない形で多額の借金を背負わされ身柄を拘束された形で日本に連れてこられて売春を強要されるケースもある。
米国国務省が「越境組織犯罪防止条約」の「人身取引議定書」を背景にして各国の対策を評価する「人身取引報告書」の2004年版で、日本を対策不十分な第二ランクの「要注意国」に位置付け、2005年に日本政府はあわてて刑法、風俗営業法、出入国管理及び難民認定法、旅券法の改正を行った。
その結果、さらに売春産業が目に見えない形で地下にもぐったという指摘もあながち間違いとはいえないだろう。
現実には、売春そのものは表向き法で禁じられているが、実質的に売春を仲介している風俗営業のなかで、パスポートも身柄も拘束同然にされて行動の自由を奪われ、賃金も払われないまさに「性奴隷」状態におかれるリスクと背中合わせにありながら、日本でセックスワークに従事して無事に自国へ帰国する人々も多い。
この本は、日本とタイでセックスワーカーたちに直接インタビューして、セックスワーカーになる前、セックスワーカーになっていくこと、セクスワーカーであること、そして元セックスワーカーであるということを軸に、その経験を理解するとはどういうことかについて書かれている。
こう書けばなんということもないように思えてしまうが、セックスワーカーたちから本当の気持ちを聞きだすまでは、えらく時間のかかる、面倒な仕事であることは容易に想像できる。
おそらく客からも興味本位の質問を数多く受けているであろう彼女たちにしてみれば、真面目に質問に答えているふりをして、うまくやりすごしたり、はぐらかしたり、というテクニックは当然身につけている。それが生きていく知恵でもある。
博士論文を書くためとはじめから正直に打ち明けてインタビューを始めた著者の質問に、なにもまともに答える義務は彼女たちにはない。また、医師や行政担当者のように、その質問に正直に答えたから何か実利的な利益がもたらされるようなことは、社会学の博士課程の学生の質問からはありえないだろう。あるとすれば、質問者を信用するというそのひとつしかない。
本書を読み終えて、著者が質問者(ガクモンをする人)のもつ特権性に大変敏感になって、インタビューに至るまでの準備や、対象者への接触法に気を配っていることが伝わってくる。
私などは簡単に「農村の貧困が人々を都市に押し出し、女性を売春に追いやる」などと表現してしまい、それがあながち間違いだとは言えないけれども、貧困を取り巻く宗教意識や家族関係とその葛藤、コミュニティーの持つ有形無形の圧力、都市へ踏み出すきっかけ、媒介者となる人物など、細かく言えばいろいろな要素がそこには絡んでいるということをそぎ落としとしてしまう結果になる。
セックスワーカーとしてどう生きてきたかの諸体験にも興味はあるが、私は彼女らがセックスワーカーを辞めた後の生き方に、関心を持って読んだ。
売春を、性サービスを提供する女性たちの自由意思による労働か、グローバルな経済と女性差別がもたらす性奴隷制度かのどちらを決定しようという論議は、実はあまり意味はない。
自由意思といっても、実際、選択の幅としては狭いものだし、社会的な偏見は外から規制するだけでなく、女子たちの心の中に内部化されている価値観となって選択を制約していることもあるからである。
人は具体的な状況を前にして、それほど広い視野をもって行動を自由意思で選択などできるものではない。かといって、ひとはシステムや社会構造から全く自由には動けないというのも言い過ぎだろう。
彼女たちの課せられた厳しい制約のなかでの選択や、悪状況をやりすごす生き方を、どう社会の大きな構造とつなげて見ていけるかは、私たちに課せられた課題となって突き返されてくる。オーバーにいえば、あなただって、実はそんなに自由に生きられているわけじゃあないよ、っていうことだ。

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