かつて私は、「謀略の伝記―政治家ウェーナーの肖像」 (1982年 中公新書 伊藤 光彦著)という本を読んで、ドイツ社民党のブラント政権を誕生させた院内総務のウェーナーという人のことを初めて知った。彼はナチス時代には若き共産主義者としてソ連に逃れたことがあったが、スターリン時代の共産主義の実像を見てそこから離れ、戦後になって西ドイツで社会民主党員となった。国会議員としては、表舞台よりも根回し・裏工作の世界に生きた政治家である。
日本から見ると、ドイツの社民党はブラントとシュミットの両首相に代表されると思っているが、伊藤氏の本を読んで、こういう「汚れ役」を演じる政治家がいて初めて万年野党と思われた西ドイツの社民党が政権を握ったことが分かった。
この本を読んでから、我が国の社会党にせよ、共産党にせよ、権力を握るためにあえて汚れ役に徹し、時に危ない橋も渡るタイプの政治家がいないことに気がついた。確かに国会対策のベテラン・タイプの人はいたが、それはそれまでの話で政権を何が何でも取ろうという気迫のある人はいなかった。
自民党には大野伴朴だの川島正二郎だのといった人から金丸信まで、根回しを業とするタイプの人は確かにいた。だがこれは、自民党という万年与党が握った権力を何が何でも離すまいとする気迫は感じても、政権を取りに行くというものではなかった。
一度だけそれに近い政治家を見たと思ったのは、自民党が1993年に野党に転落したときに細川政権を退陣に追い込んだ野中広務である。野中の細川政権を追い詰める執念は、なかなかすごい迫力があった。思えば、あのころ自民党の政治家はほとんどが放心状態で会った中で、野中だけが力強かった。
魚住昭の「野中広務 差別と権力」(講談社)を読めばそれがなぜか分かる。野中は戦後の青年団活動から地方政治家として地歩を固めるなか、当時地元の京都府は蜷川革新府政が長期にわたって続いていた。彼は長い間、いわば「野党」政治家であった。蜷川府政は当初は社会党が主導していたが、長期政権になるにしたがって各種組織に共産党の勢力が浸透していった。社会党は共産党に食われる形で勢力を失っていった。蜷川虎三知事も共産党に依存するようになる。
自民党が蜷川知事引退を受けた選挙で府政を奪還するに貢献した野中は、副知事に就任する。普通、副知事は官僚出身者がなるものだが、野中が就任したのはいうまでもなく府庁の内外の組織にいた共産党関係者をあぶり出すことが仕事だったわけである。
したがって、野中が中央政界に進出するのは年齢的にも遅れた。いわば、地方政界での貢献から名誉職的に国会議員の議席を得たに等しいのだが、はからずも細川政権の成立が彼を中央政界の表舞台に立たせるきっかけになったわけである。もしあそこで自民党が野党にならなければ、彼はそんなに注目されることはなかっただろう。自民党がほぼ1年で政権を奪還したのはほとんど野中ひとりの「功績」ではなかろうか。亀井静香などは野中の傘の下で大声を出していたにすぎないだろう。
社会党の村山首相が一番の相談相手としたのはもちろん野中であった。村山政権から橋本政権への移行がスムースに行われたのも野中の功績だろう。だが、自社さ政権の時代が終わり、小渕、森政権となるにしたがって、彼の存在は自民党内で浮きあがってくる。橋本内閣の梶山官房長官との確執は、国会議員としての当選回数がそれほど多くないわりに存在が脚光を浴びた野中への嫉妬がだいぶあったという話である。
小泉政権の成立で野中はある意味、権力闘争に敗れ、やがて国会議員としての職も辞することになった。魚住の著書には、小渕政権のときどうして公明党が自民党との連立に踏み切ったか、野中がそこでどんな工作をしたかがつづられている。いわば、公明党は野中の権謀術数に震え上がって自民党とくっついたのである。
小泉は野中を追い落としたといえるのだが、小泉がメディアを手玉にとって権力を維持したことは確かだが、それもこれも野中が自民党を政権に復帰させてくれたからのことである。野中がいなければ、自民党はいまごろなくなっていたかもしれない。小泉は非主流派で冷や飯を食わされても、ふてくされても、ともかく自民党にいたから首相になれたのである。93年に自民党が野党に転落したとき、彼は何をしていたのか?
次の総選挙がどういう結果になるかは分からない。しかし、民主党は小沢氏になってから少しはマシになったのかもしれないが、政権を取りに行くことのために「汚れ役」になってもいいというほどの気迫がある政治家はいないような気がする。どこか、棚から牡丹餅を待っている感じがある。
そして自民党はもしも政権を失ったときに、何が何でも政権を奪還するという気概のある野中のような人は自民党にはもういないのである。みんな、生まれた時から自民党が与党であることが当たり前みたいな人ばかりなのである。そういう人たちが、はたして一度失った権力を奪還できるのだろうか?

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