そういえば、「小沢昭一・浅川マキ ジョイントコンサート」というのが神田の共立講堂であったとき(多分1975年の4月?)、小沢昭一さんが話したことを思い出した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
敗戦の年の4月に海軍兵学校に入った。なんで職業軍人なんか志願しちゃったのかね、いや、そういう時代だったんだね。
そして8月15日。正直、うれしかった。
戦争に負けたので、みんな国に帰れ。帰るに際して、「学校にあるものを持てるだけ持って帰っていい」と教官が言い出した。
なにしろまだ数か月しかたっていないから、娑婆の事情がよくわかっている。神田の古本屋で辞書が高く売れることを知っていた。
それも普通の辞書はダメ。英英とか、独独とか、仏仏がいい。
で、図書館からその英英、独独、仏仏を持ち出し、それと軍服を10着荷物にして山口県の防府から汽車に乗った。学校は300円渡してくれた。
途中、大阪で降りて友達の家に泊まった。よくあさ起きると300円のうち、100円がなくなっていた。
「でもあたしゃ、その友達を恨めなかった。まあ、そういう時代だったんだね」
名古屋でまた、汽車を乗り換えようとした。
そのとき「待て」という声がした。
刀を下げた軍服姿の男たちに捕まった。
「これからアメリカ軍上陸に備えて、俺たちは切込み隊を編成する。ついてはお前も仲間に入れ」と脅された。
せっかく戦争で生き残ったのに、ここで死んだらバカバカしい。しかし、相手は武器を持っている。
「ちょっとお手洗いへ」と言って逃げようとしたら、「荷物を置いていけ!」。
しょうがない。命には代えられない。しかたなく、荷物を置いて別のホームの汽車に乗った。座席から見ると、置いていった荷物が見える。
前の席に男が座っていた。
「あの大きな荷物、取ってきてくれないか?」とその男に言った。持っていた200円のうち、思い切って100円をその男に渡した。
そうしたらその男、カネに目がくらんだのか、ひょいひょいとホームを渡って、荷物のそばへ。
どうなるかな、と思って見ていると、なんと軍服姿の男たちは酒を飲み、「同期の桜」を大声で歌い始めた。
そこへその男が来て、なんのことはない、ひょいと荷物を担ぐと、ひょいひょいとホームを渡って、そのままこちらへ持ってきてくれた。
そのまま無事に東京へ帰り着いた。
学校から持ち出した英英、独独、仏仏の辞書を売り、家では親父もお袋も、みんな軍服を着ていた。
でも、その大きな荷物ともう一つの小さな荷物も一緒に持ってきてくれ、とは言い忘れていた。その中に入っていたハーモニカは持って帰れなかった。
何もない東京で、ハーモニカはなかなか手に入らなかったが、ずいぶん時間がたってから、駿河台の明治大学のそばの古道具屋でやっと手に入れることができた。戦前、明治大学はハーモニカバンドで有名だったから。

0