「「思想」としての大塚史学 戦後啓蒙と日本現代史」(恒木健太郎著 新泉社)を読んだ。
大塚久雄の「欧州経済史」とか「共同体の基礎理論」とかは今でも文庫本で読めるのだが、現在では西洋経済史の分野では、完全に過去のものになっているらしい。
それでもこれらの著書が今でも版を変えて出版され続けているのは、戦後民主主義のはなやかなりし時代の遺産としてということのようだ。
だいたいアタシが初めて大塚久雄の名前を知ったのは、色川大吉さんが自分の東大の学生時代の話を語りつつ、「近代資本主義の合理的精神を具現化したロビンソー・クルーソーの話を、彼はまだNHKの市民大学講座で話している、ああいうモダニズム思想と自分は戦っているんだ」といっていたのを聞いた時のことだった。
まあ今流にいえば、戦後啓蒙主義の典型たる大塚久雄、丸山真男批判というヤツだ。
どうもアタシは、大塚久雄といえば、例のマックス・ウェーバーの「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」の訳文はあんなの日本語じゃないとか、そういう悪口ばかり聞かされてきた。
極めつけは、中野敏男「大塚久雄と丸山真男 動員、主体、戦争責任」(青土社)に書かれているように、大塚久雄が戦中に書いた西洋経済史研究のなかに描いた自由で独立した自発性に満ちた主体という理念は、実は戦時体制の批判というより、戦時総力戦体制への貢献に結びつき、戦後も近代的自我の確立を歌う戦後啓蒙の主役となりながら、その実態は個人の自立的倫理による国民的生産力建設という考えに受け継がれた、という批判があるのである。
つまるところ、1970年代後半にアタシが大塚久雄の名前を知ったころから、ずっと批判ばかり聞かされてきた。
しかし、大塚史学に対する批判は、アタシがそれを耳にし始めたときからではなく、戦後すぐからマルクス主義陣営から、さらに実証主義史学の立場からも批判の集中砲火を浴びてきたことが、この恒木氏の本から具体的に分かる。
ついでながら、この本によってアタシは大塚久雄のユダヤ人への偏見なるものまで知ることになるのだ。まあ確かに、大塚氏の資本主義論は、製造業偏重で流通、金融業を軽視しているのは確かなんだろう。
そんなに各方面からぼろくそに言われ続けた今は亡き大塚氏の主要著作が、それでもまだ絶版にもならずに版を変えて出版され続けている。
大塚氏の著作にどんなに欠陥があろうと、彼は戦時下の思想弾圧の下で西欧資本主義の成立のなかに個人主義と自由を読み取ろうとして時局に抵抗したのであり、戦後も変わらぬ日本社会の病理を、研究の中で批判し続けたという見方が根強く残っているからだ。
アタシ個人は、大塚氏の戦時下の議論は、あくまでも総力戦体制を合理的に遂行するためにも・・・という衣をかぶりながらの知識人の時局批判だったのだと思う。だけれど一方では、確かに嬉々として「主体的に」総力戦体制に協力した国民もいた。
専門の学問的価値からみれば終わったはずの大塚氏の著作が今でも版を重ねている。そのことは、つまりアタシたちの生きている社会がいまだに戦前、戦中に似ているという疑いを抱いている人が一定数はいるということの証明なのかもしれない。そういう人たちがいる限り、大塚氏の亡霊はアタシたちのそばをさまよい続ける。

0