朝日平吾は1921年(大正10年)に安田善次郎を暗殺した今でいう右翼活動家で、この暗殺事件が昭和初期のいわゆる超国家主義(昭和維新)運動のスタートを暗示させるものと考えられる。
当時の読売新聞の記事に、大久保利通や森有礼、星亨といった明治時代の暗殺事件などは、この朝日平吾の引き起こした安田翁の死に比べれば「思想的な深みは無い」と書き、「安田翁の死は、明治大正にわたっての深刻な意義ある死である」とした。
だが当時は、首相の原敬の日記に「兇漢は不良の徒にて特に安田に怨恨等ありし者にはあらざるが如し」とあるように、単なる粗暴な男が寄付の要請を断られた末に衝動的に殺害したものと考えられていた。
しかし、この事件は原敬の予測を超えて、その後の歴史を大きく進める事件に発展する。
大正デモクラシーの代表的な論客であった吉野作造は、プロレタリア作家の宮島資夫の長編小説「金」の読後感を書いた文章の中で、朝日平吾の事件について感想を述べている。
「寄付を求めて応ぜず怒りに任せて殺したという風に報じたものもあったが、それにしては朝日の態度が立派過ぎる、事柄の善悪は別として、之には何か深い社会的ないし道徳的の意義がなくてはならぬ。」つまり吉野は明らかに朝日平吾に同情的なのである。
吉野作造は安田善次郎が地方銀行乗っ取りや株式市場操作で悪辣の限りを尽くしたことを述べ、安田がいかに大学に講堂を寄付したり、市政調査会に資金提供をしたりといった社会貢献をしたとしても、それで罪が償えるわけではないとまで言う。
もちろん安田一人を殺したとてそれが直ちに社会を救うことになりはしないし、その短見は非難すべきだとしても、「このときに当たり社会の上流に金のためには何事を為すも辞せぬという貪欲な実業家があるとしたら、この古武士的精神と新時代の理想との混血児たる今日の青年が、物に激して何事を仕出かすか分かったものではない」と吉野はいう。
朝日平吾の遺書「死の叫声」にはこのようなことが書かれてあった。自分は人間であると同時に真正の日本人であることを望んでいる。真正の日本人とは、陛下の赤子であり分身であることの栄誉と幸福を保有する権利である。これがなくて名ばかりの赤子だとおだてられ、国を守る武人と欺かれた。すなわち自分は生きながらの亡者である。むしろ死ぬことを望まざるを得ない・・・。
朝日平吾の遺書には、自らを「生ける屍」と見なしている無力感があり、自己の無力感を舐めさせられた者の怨恨が込められている。宮島資夫の「金」にはこう書かれる。「要するに自分は滅ぶべき種類に属した人間である。しかし滅ぶべき性質のものは、滅ぶべきものとしてなすべきことがある。そうしてそれはやがてたんに滅ぶることとはならない。それによって自分は生きたことになるであろう」。
朝日平吾の遺書に込められた思いとは、何ゆえに本来平等に幸福を共有すべき日本人たる自分たちの間に、あまりにも越え難い差別があるのかというナイーブな思想である。おそらく明治に青年期を迎えた人間には、朝日の中にある人を恨み、世を恨み、自己のすべてを呪う種類の感情を「女々しい言葉」だという一言で切り捨ててしまうであろう。
それはあたかも、今高度経済成長期の中に育った団塊の世代が、バブル崩壊後に社会に放り出された青年たちの心情を、「要するに精神力が足りない」の一言で切って捨てようとするのとほぼ同じ無神経さであると感じる。

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