橋川文三は、朝日平吾の遺書を貫くものは「なぜに本来平等に幸福を享有すべき人間(もしくは日本人)の間に、歴然たる差別があるのかというナイーヴな思想である」という。
「昭和維新」とは、そうした人間的幸福の探求上に現れた思想上の一変種である。そこには一種の悲哀感が漂う。朝日平吾の遺書には強気の反面、いかにも感傷的な不遇の者という印象が漂う。
この青年を捉える悲哀感は、明治末期にすでに現れ、大正を貫いて広く瀰漫した感情である。そうした心情の原型は、渥美勝という明治10年に生まれ、昭和3年に51歳で死んだ人物についても見られるのだが、この右翼活動家はいわゆる世に知られた人ではない。
彼は昭和維新の運動が世を騒がせることになる前にすでに心身が衰え、現実に何事かを成し遂げることなく生涯を閉じた。第一、彼自身が書き残したものは遺稿集が一冊はあるものの、そもそも資料に値するものが極めて少ない。
しかしながら、昭和3年に彼が急死すると、「12月9日、日本青年館において葬儀執行」されて、「葬儀委員長頭山満、委員永田秀次郎、丸山鶴吉、大川周明、赤池濃ら30余名、参会者200名という盛会であった」という。
渥美勝は、汚れて汗臭い絣の着物に小倉袴を身につけ、腰にタオルをぶら下げ、その瞳は透明で露をたたえ、犯すべからざる気品さえあったという。初めは神田須田町の広瀬中佐銅像下で、後には上野の森で、通行人に「神政維新桃太郎」の旗を立て、通行人に演説をしていた。
老荘会、猶存社の中心人物であった満川亀太郎は渥美勝のことを「姿はそぞろにアシジの聖フランシスを思わせられたが、舌端火を吐く熱弁はサボナローラーに比すべきであろう」と激賞している。
彼の生涯は通常の意味では奇人、さらに悪く言えば世渡りに関しては全く無能者に近いものであった。だがもし順調に行っていたならば、第一高等学校、京都帝国大学法学部を出て世のエリートの中に加わるはずであった人なのだが、学業の途中で人生に煩悶し、京大を中退したまま故郷に帰り、一時は中学教師になるものの、それも長続きせず一生を未婚のままで終えた。
学業を放棄した京大時代、彼は仏門を訪ねたり、教会の門をたたいたり、あるいは西洋哲学の本を探ったりしたが、それはこの時代の彼の同窓生にもままあったものである。石川啄木のいう「時代閉塞」の状況は、この時代の若者になにがしかの影響を与えていた。「ただ、彼がたどりついたところは、他の人々とはことなり、どこか童話の世界を思わせるような日本神話による自己救済という境地であった」。
学校にも出席せずに鬱々とした日々を送っていたある日、近所の幼稚園の子供たちが無心に歌う「桃太郎」の歌を聞いたとき、自分が世に生きる理由は何かという悩みに沈んでいた渥美の心に、ふと微光がさし、それはやがて広々とした世界を眼前に開かせた。「自分のようなものでも生きられる」という思いである。
「皇国の神話は、決してたんなる伝説ではない。過去の神秘的な物語や記録として神殿に祭りこまれてしまうべきものではない。真に、皇国生成の源泉であり、日本民族生命の古里であり、しかも神話の精神は、永遠無窮に、万邦兆民をして、その処を得しむるた天つ神の大精神の表現である。わが桃太郎は、その神話の精神を奉じて聖業翼賛に邁進するのである。われらは自ら桃太郎をもって任じなければならない」。
これがのちに渥美勝が街頭演説の旗印とした「国の子桃太郎」の起源だそうである。これは心身枯渇の衰弱に苦しむ青年をしばしば襲うことがある、恍惚感を伴った回心の経験であるという。
だが不思議なのは、彼のようなエリートコースをドロップアウトした人間を、金銭面で支える人の中に、かつての彼の同窓生のなかのエリートへの道を踏み外さなかった人たちの影があることであろう。それはエリートコースを踏み外すことなく、うまく世渡りをした人間の中に巣くう「心の闇」が、生活無能力者の渥美に何か共鳴するものがあるからなのか、それともなにがしかの利用価値があると見たからなのか?

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