佐野眞一はこの本で高度経済成長以前に存在した、名もない庶民、誇るべき日本人、美しい日本人への思いを描こうとしました。
この本を読んでまず印象的なのは、田中角栄元総理への批判的な言及です。
渋沢敬三が亡くなった一九六三年一〇月の葬儀のとき、弔辞を読んだのは当時の大蔵大臣・田中角栄でした。
佐野は田中を「敬三が生きていれば最も嫌悪したであろう人物」だと言っています。そのような人間に弔辞を読まれたところに「敬三の悲劇性が現れてい」る、とも言いました。(p414)
ほんとうに渋沢敬三が田中角栄を嫌っていたかどうかは分かりません。だが、佐野はあえて自分の強い思い込みを隠そうとしません。
「田中はそれからまもなく、『日本列島改造論』の号令一下、日本列島の隅々までブルドーザーで踏み荒らすことになった。その田中角栄と似て非なる視角から地域振興を図ろうと絶望的な闘いを挑んでいったのが、敬三から箱入り息子といわれつづけて育てられた宮本常一というきわめて特異な民俗学者に他ならなかった。」(p415)
渋沢敬三は、祖父に渋沢栄一をもつ銀行経営者であると同時に、民俗学の研究を行い、研究者を財政的に陰で支え、民俗学資料の収集に多大な功績がありました。
宮本常一が日本中の農村を調査して歩けたのも、渋沢の支援によっていました。
図らずも戦中と敗戦直後の激動期に日銀総裁、蔵相の職についた渋沢は、戦争遂行による公債発行と財政破たんを立て直すため、資産家への課税を強化することになった結果、彼自身が自分の資産の多くを失うことになります。
だが、もともと自分はなりたくて銀行家になったわけではない、と自らの「没落」を進んで受け入れました。その人格の高潔さには驚かされます。
宮本常一は、一九五〇年代前半に渋沢の勧めで対馬の民俗学調査に参加しました。そのことをきっかけに、一九五三年に成立する離島振興法のための政治への働きかけの活動も行いました。
佐野は、この時期に宮本が書いた文章は貧しい離島救済への素朴な使命感が先に立ち、生硬な印象を残すと評しつつも、「しかし、宮本の文章を仔細に読めば、田中角栄ばりに、島に港をつくり橋をかけることが望まれるのではなく、島の生存基盤を内部からつくっていくことこそが肝要だといっていることがよくわかる」(p355)といいます。
宮本は、「離島振興法ができたから島がよくなるのではない。島をよくしようとするとき離島振興法が生きてくる」(p355)と主張していました。
だが、高度経済成長は宮本が考えていたような地域の内発的な力を生かした発展の道を進まず、補助金行政と保守政治家の票獲得の道具に離島振興法を悪用し、道路や港は整備されても、人材は都会へ流れ、地域経済は疲弊する結果を生み出しました。
佐野は、美しい表情を持つ「庶民」を、顔がない「大衆」へと変貌させていった時代の流れに怒りを込めて、宮本常一と渋沢敬三の階級を超えた人間的交流を美しく描き出しています。
佐野眞一『旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三』 (文春文庫)

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