わたくしの卒業した高校には、創立者の言葉が各教室に飾られていたのを思い出す。
そこに「若き日に汝の思想を培え」とあった。つまり、自分の思想を持って主体的に生きろということである。
しかし最近ふと思うのだが、自分の思想を培うことは可能なんだろうか。確かに年齢を重ねれば思想といえば大仰だが、自分なりの考え方は経験を通じて固まってくるかもしれない。
だが、どんなに経験と読書を積み重ねても、結局思想はどこかの誰かがこれまで言ったことを適当に「編集」して、もっともらしくまとめたものに過ぎないような気もする。
近代キリスト教神学の確立者であるシュライエルマッハーの思想とは、すなわち中世までは天上にいた神は、各人各々の心の内にあるのだということを明らかにしたものだという。
なるほどこれなら、旧約聖書の人類創造の物語も、イエスの奇跡も、あくまで科学と矛盾するものではなく、心の内なる神との対話として、我が心の真実の物語に還元できる。信仰と科学はなんら矛盾するものではなくなる。
キリスト教に限らず、近代化した宗教はあくまで人間の心の問題だと言えば、誰もが納得せざるを得ない。
だがシュライエルマッハーの近代神学は、20世紀に入って大きな壁にぶつかる。
1914年8月1日、ドイツの皇帝ヴィルヘルム二世はベルリン王宮のバルコニーから国民を熱狂させる開戦の布告を読み上げた。そこには「私の目には、もはや党派の区別はない、知っているのはただドイツ人のみである」という一句があった。
フランスでもドイツでも、これまで熱心に戦争反対を唱えていた社会民主主義者までが国民的熱狂に投げ込まれた。
カールバルトは、彼が指導を受けたハルナックがこの布告の文章を書いたことに衝撃を受ける。
「私には、あの年の8月のはじめの一日は、暗い日として心にやきつけられている。その日に93名のドイツの知識人が皇帝ヴィルヘルム二世の戦争政策にたいする承認を公表した。その中には、私の驚いたことに、それまで私が信頼し尊敬していた神学上の先達の名前も見いださねばならなかった。・・・私は、彼らの倫理学や教義学、聖書解釈や歴史観に、もはやついていけないこと、19世紀の神学が、ともかく私にとって、もはや何らの未来をももたらさないことを認めた」(バルト「19世紀の福音主義的神学」)
つまり神は各々の心の問題という思想は、容易にナショナリズムに飲み込まれてしまうものであったということなのである。それはつまり、自分の思想を持てという一見立派で個人を尊重する態度が、つまるところ、国家の指導や「崇高な」目標に従う個人への自己陶酔にすり替わりやすいということを示しているのではないか。

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