丸谷才一は、日本の文芸評論には詩について何かを語る伝統がなく、日本の近代詩が文学のなかで重要なものとして語られることが少ない理由について「文学のレッスン」の中で語っている。
「俳句と短歌には日本人の生活と結びついた形がある。それ以外の詩となると、がぜん社会から遊離している。近代日本人は、『百人一首』という和歌の詞華集、『歳時記』という俳句の詞華集は持っていて、全国民的に親しんでいるけれど、詩の詞華集はないでしょう。」
文芸評論が詩についてあまり論じなかったことについては、次のように語っている。
「小林秀雄が戦前、自分は詩壇の事情に疎い、こんな文芸評論家が外国にいるだろうかと書いたことがありました。実際、日本の批評は明治以来ずっと詩について論じなかったんです。小説が中心だった。しかもその小説論が、小説にことよせて社会と人生を論ずるというものだった。そういう小説論に引きずられたのか、ほんのわずかにある詩論も、実は社会論と人生論にすぎなかった。」
ではなぜ詩について書かれる批評が少ないのか。「実はわれわれの社会が詩を求めていない、詩の読者がいないからなんです」という。
もっとも、例えば日本の「純文学」小説もそれほど厚い読者層がいたわけではなかった。「日本の戦前の小説がああいう調子だったのは、普通の小説の読者がいなかったからでしょう。ごくわずかの同業者が雑誌を読んで、作者の人生態度をののしったりするのが小説論だった、という面がありますね。」
詩は、テクストがあればそれで詩があるということにはならない。「テクストがあって、そのテクストのもたらす意味と音と映像と、テクストを書いた詩人の心を経験する読者がいて、読者が経験するときに初めて詩が成立する。」
「詩的な創造というのは、連想によるレトリックとか、同音異義語による刺激とか、音の連鎖とか、漠然とした意味の連鎖、さらに記憶の連鎖とか、そういうものによって、まるで人間が夢を見るときのようになにか混沌としたものが詩人の心の中に出てくる。それは大部分が意識下にある混沌としたもので、夢の場合と同じように言語による連想作用であるわけですが、その出てきたものを夢の場合と同じように何かが検閲する。この検閲というのはフロイトの用語です。本能的な衝動を抑圧して意識面から排除する、整理する。そういう風にして詩人が詩をつくる。その作った詩を、今度は読者の方でも検閲をやる。検閲しながら整理して読んでいく。」
詩人は無意識を検閲して詩というテクストをつくり、読者はそれを読むことによって検閲して受け取る。
この詩人と読者の共同作業によってはじめて詩は成立する。しかし、現代の日本ではこの読者の層が薄いために、作者と読者の協同作業としての詩が成立しにくいのだという。

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