「「歎異抄の近代」子安宣邦(白澤社刊 現代書館発売)」
読書
「歎異抄」は親鸞の語録とされているので、実は親鸞思想を語ってはいるが、親鸞の実像だとは言えないらしい。親鸞の思想は、「悪人正機」(悪人こそ救われる)など、近代の自意識に適合的な面が注目されてきたが、それは清沢満之やさらにそれを大衆化した「歎異抄講話」などの著者である暁烏敏などの近代的な親鸞思想だということのようだ。
末木文美士の最近の本などにはっきり書かれているようだが、親鸞のおおまかな伝記、生涯については分かってはいても、実証が難しく、一時は「非実在説」さえあったようだ。
子安氏のこの本は、その意味では歎異抄がどのように読まれてきたかをあくまでも「近代の親鸞思想」の枠内で語ったものである。
ワタクシにとっては、暁烏敏という人の親鸞思想の「大衆化」に果たした役割について、認識を新たにした。また、倉田百三なんていう人のことは、これまで食わず嫌いで目も通していなかったのを思わず反省させられたりした。
思想的にいえば、「わが塔はそこに立つ」を書いた野間宏と、「最後の親鸞」吉本隆明とでは水と油のはずである。子安氏は、思想的には野間に近いはずなのに、野間の小説に関しては評価は低く、ほとんど論理的には飛躍が多くて思い込みに満ちている吉本隆明の親鸞論は、彼の「大衆の原像」に関して語る際に、親鸞を通すと極めて説得力を持ってしまう不可思議さがある。

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