幼い時から競争に明け暮れて、競争の場は、学校から職場に変わっただけ。
学校で習ったことは役に立たないというが、知識を詰め込んではテストで吐き出す競争に体を適応させておくことは、十分に社会(会社?)で役に立つ技術だと信じられてきた。
いったい、その競争は何のためだったのだろう。
人は能力を発揮し、自分を満足させたい、プライドを満足させたいといった目的で、競争をするんだとする。
それを全く否定するのが正しいとも言えない。
競争を否定するような偽善的な学校教育は、かえって子どものためにならないだろう。
しかし、それは何のためだったかの反省は必要だ。
根底には戰後の日本の経済発展があるのではないか。
中国が(中華民国も、中華人民共和国も)日本の侵略に対する賠償請求権を放棄してくれたおかげで、そしてその後の朝鮮戦争とベトナム戦争という二度ものアメリカの愚かな戦争によって生じた特需のおかげで可能になった経済復興を「奇跡の復興」などと日本人は呼んだ。
確かに1989年ごろまでは、その日本の経済発展が周辺の他国の犠牲の上に成り立っていたことにあまりに無自覚であったけれども、少なくとも日本人自身のためになっただろう。(ただし沖縄県を除く、かもしれないが・・・)
ところがその後も、皆が経済の右肩上がりは可能だ、みたいな気になって、働きさえすれば幸せになれると思いこんだ。
何がなんでも一流企業に就職することが幸せにつながるという価値の受験戦争も、1989年以前の日本の経済成長につらなる価値観を生んだ。
戦後の「逆コース」の発端には、公務員のスト権を奪う悪法があった。
そして、労働者が権利を主張すること、そのための唯一の交渉手段であるストライキを罪悪視することも、日本人の意識を根底から歪めた。
保守党が労働者を会社に縛り付けるために考えだした「持ち家政策」によって、人々は憲法25条に保障されているはずの移住と職業選択の自由を放棄して、ローンを背負い込んだ社畜となった。
1970年代、石油ショックで、賃上げはコストプッシュインフレの元だと財界に恫喝された労組は、それを唯々諾々と呑んだ。
それも、大企業中心の労組が、経済の二重構造の上に胡坐をかいた連中だったため、労組幹部が経営者の仲間入りするという階級的裏切りの制度化を疑いもせず、下請けの中小企業をいじめて平気だったからであった。
こんななかで、やれ高度成長だ、バブルだと言うものの、しょせんインフレ期待でローンの重荷をガマンするだけの、余裕のない暮らしに変わりはない。いや、その恩恵を得る階層も先細ってきている。
そのなかで、愚にもつかぬテレビやスポーツの娯楽やグルメブームなどに中毒し、意識が麻痺した余裕のない暮らしだったのに、今も経済成長の夢が覚めきらず、自分の生まれる前の愚かな空騒ぎの時代の価値観を親から受け継いだ愚かな大人に育てられたワカモノが多いとしたら、それはまさにワカモノではなくバカモノだということだろう。
そこにあるのは、狭い世間で見聞きする、周りを見下すか嫉み深い感情だけだろう。
そしてそれを煽りたてて利用するのが、安倍晋三世代の「愛国心」にほかならない。
さすがにそのような「バカモノ」は少ないとは思うが、「ワカモノ」が政治に無関心であれば、「バカモノ」があたかも若者の価値観を代表するかのようにメディアで紹介される。これは憂うべきことだ。

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