筑紫哲也氏追悼シンポジウムというのが早稲田大学の大隈講堂であった。
TBSの金平茂紀アメリカ総局長は、「筑紫さんは政治記者をやりながら、日本の政治報道にイヤなものを感じていたと思う。僕も、メディアはもっと権力の醜さをチェックする役割を担うべきだと思う」と発言。
田原総一郎は、「じゃあ金平さんは政治記者が夜討ち朝駆けなんてやめるべきと思っているんですか?」と問いかける。
川岸令和教授は、福田首相が辞める時の会見で「首相のおっしゃることは他人事のように聞こえる」という中国新聞記者の質問に言及し、記者クラブ制度のなあなあ主義について指摘。
田勢康弘は、あの質問は単なる目立ちたがりで、政治記者の仕事はもっと目だたない地味な情報収集だと発言。
金平は、「夜討ち朝駆けが悪いと言っているのではない。アメリカにもボブ・ウッドワードのように内部に入り込んでそれを本に書くというスタイルはあった。要するに、内部に入り込んで建前でない本音発言をつかもうとするのはいいけれど、逆に取り込まれて、一体化してしまうのはどうかといっているのだ」と発言。
つまり、内部に入り込むのはいいが、そこに何の批判精神もないのはいかがなものかということ。
筑紫哲也さんは確かこんなことを言っていた。自分は大学の時成績が悪かったので、学校推薦でどこかに就職することができなかった。推薦なしで受けられたのが新聞社で、しかもその年だけ朝日新聞の試験は、最初に足切りをするための常識テストがなかった。だからその年は、本多勝一とか自分とか、「常識のない」人が入社できた・・・。
優等生は、悪い意味で郷に入っては郷に従ってしまうというか、あなた色に染められる(いや、みずから染まる?)というか、そういうところがある。
その中で、姜尚中がジャーナリズムはナマモノを扱うが、学問の世界は干物を扱うと言った。時代が大きく変わるとき、過去を振り返らなければならないときに干物は案外役に立つ。
筑紫さんは、ジャーナリズムとか学問とかいう垣根を越えていろんなことに興味関心を失わなかった。その意味で、干物とナマモノの両方が分かった人かもしれない、ということ。
かつて政治記者は自民党の派閥の領袖に取り入って、本音を聞き出すのを仕事にした。角福戦争のころには、田中角栄、福田赳夫が夜料亭から家に戻ってお茶漬けを食べるときに一緒に食べる記者、応接間で見ている記者、玄関に張り付いている記者というランクづけがあった、と田原総一郎が言っていた。
そのような政治記者ならぬ政界記者的な報道の在り方に筑紫さんは、自分も政治部にいながら批判的であったが、幸いにも彼は三木武夫の番記者だったから、取り入るつもりが取り込まれ、ついには一体化してしまうような政治記者にはなり得なかった。
三木武夫自身が自民党内の異端児であり、学者などと議論することを好んだタイプであったけれど、田中角栄が金脈問題で辞めたとき、自民党は三木を首相にすることで生き延びた。今の自民党にはそういう幅の広さはなくなった。
田勢康弘によれば、三木派の番記者だった人は、各紙ともその後論説委員になった人が多いそうである。田勢によれば、筑紫さんは本当はそういう政治家のどろどろした部分が好きではなかったから、自分の番組で自分の口から言いたくないことを言わせるために、自分をゲストに呼んだのかもしれない、などと言っていた。
政界記者の悪い点、それは取り入るつもりが取り込まれて、結局本音の発言を聞いても、それを書けない「書かざる大記者」になってしまったり、政界の人間関係ばかりで、それがいったい一般国民の生活とどう関係するのか、政策とどう結びつくのか訳が分からなくなったりする危険があるということである。
政治記者が、自分も派閥の領袖とともに政界を動かしている仕掛けをしはじめたりすると、本末転倒である。自民・民主の大連立騒動のときの渡辺恒雄氏のような話である。
おそらく今求められているのは、ナマモノばかりの政界情報の世界が、どうしてかくもつまらないものになり下がったのか、干物の世界から歴史的、思想的に批判の目を持って分析するという複眼の思考が必要ということか。特に政治がいよいよ液状化し始めたこの時期には。

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