ロバート・ライシュ先生は、1991年に“The Work of the nations”という本を書いた。確かこの本は、中谷巌センセイが翻訳していた。
その内容は、大量生産と国家産業の時代が終わり、「シンボリック・アナリスト」という新しい富裕層が現れ、格差が拡大する時代に入ったというものである。だからこそ、社会福祉、セーフティーネットを充実しなければならないというものである。
そして彼は、クリントン政権の前半に労働長官に就任した。ヒラリー・クリントンがかつて国民皆保険を実現させようと努力して、挫折したのもライシュ先生の思想の影響であろう。
第一次世界大戦からニューディール時代を経て、1950年代にアメリカでは代表的な大企業(中核企業)がかなり「公共的」な役割を期待されるようになった。昨今、破綻したアメリカの自動車の退職者への企業年金が問題になっているが、それはこの時代の産物であろう。
すなわち、年金も健康保険も、かなりの部分が企業によっていたわけである。
中核企業は、大量生産方式で生産コストの削減と高利益を保証する。そしてその見返りは労働者にも与える。労働組合は、会社の生産活動に協力する代わりに、ストライキは避ける。
これは、明文化はされていないが、一種の「国民的契約」のようなものであった。そして政府は、計画経済とは言わないが、中核企業のカルテルを黙認する。労働者大衆もこれに協力する。そして大量生産された生産物を安く購入できる「ゆたかな社会」が実現する。
しかしながら、1960年代後半になると、国外との価格競争が激化する。日本などの外国企業との価格競争が起こり、アメリカ経済も貿易収支の悪化が起こる。
このような中で、中核企業は持ち株会社で複合企業を創設し、相互に企業買収なども行うようになる。中核企業は、しだいに自国での大量生産は放棄して海外に生産部門を移転し始める。
もはや大量生産を放棄し、固定資産も削減し、さらに長期雇用の労働者を社内に囲い込むことも少なくなっていく。企業グループは多国籍化して、「グローバル・ウェッブ」を形成し、アメリカ企業とはいいながら国籍は名目上のものになりつつある。
1950年代の「国民的契約」はしだいに空洞化する。ピラミッド型統治構造の官僚化した企業組織は、いつのまにか分散化したウェッブ状の組織形態に変態を遂げていた。ウェッブの中心は、生産ではなく特許や価値ある情報を押さえる企業へ変わった。
1980年代に外国企業がアメリカの市場を略奪したという貿易不均衡論がメディアを賑わせた。確かに日本企業の進出もあったが、むしろ多国籍化したアメリカ出身の企業が、外国企業と組んで作った「外国企業」と提携して、そのブランドでアメリカ市場に向けて販売を始めたことが大きかった。
日本企業たたきは、むしろアメリカ系の多国籍化された企業の行動を目立たなくさせるためにうまく利用された形跡があった。
グローバル化された企業形態の変化は、これまでの製造業、サービス業といった業種分類を無意味なものにした。ライシュによれば、新しい職種区分は、「ルーティン生産」(製造業労働者)、「対人サービス」(サービス産業労働者)、「シンボル分析」(情報を扱う仕事)に分けられる。
このシンボル分析を行う仕事に従事するのが「シンボリック・アナリスト」である。シンボル分析が、最も創造性を要する仕事であり、現代の先進国における富裕層の仕事であるとされる。
このシンボリック・アナリストと、ルーティン生産労働者・対人サービス労働者との間の格差が拡大しているわけである。
したがって、先進国の労働政策は労働者の再教育、進行する二極分化を是正する対策が大きな部分を占めるようになる。
ライシュ先生は、古い企業の国籍を前提にした「国家の競争力」という通念に基づいて、貿易摩擦という現象を他国とのゼロサムゲーム関係でとらえ、ナショナリズムに走る傾向を戒め、労働者の「質」を高める政策を積極的に行う「積極的経済ナショナリズム」を提唱する。
ライシュ先生は、ルーティン生産労働者や偉人サービス労働者がシンボル分析の仕事を目指せるような機会を政策として政府が与え、家族の出身にかかわらずに才能ある子どもがシンボル分析者になる道を開かなければ、中低所得層はますます政治的無力感やニヒリズムに陥ると考えた。
ライシュ先生は、グローバル化の中では高所得者の国民の貯蓄は、そのままにしておけば国外に流出するし、公共支出を削減して減税のみを行えば、シンボル分析者として所得を増やして財をなした人々にのみ安楽な暮らしを保証することになると考え、むしろ積極的経済ナショナリズム政策のために、所得税は累進的なものにしたほうがよいと考えたようである。
ライシュ先生のこのずいぶん前の本を読むと、なんだ「日本的経営」なんてアメリカでは1950年代に実現していたんじゃないかと思ってしまった。
日本で「日本的経営」なんて言われるようになったのは、1970年代の終わりごろだった。その頃、石油ショックがあり、日本の民間大企業は労使協調で、解雇は行わない代わりに、配置転換は柔軟に受け入れ、インフレ率を押さえるために賃上げ闘争は抑制するという見えざる「協約」が結ばれたものである。
「日本的経営」は要するに20年遅れでアメリカに見習っていただけだったのではないか?
この本をかつての中谷巌センセイが翻訳していることからも分かるように、基本的にはライシュ先生は「新自由主義」的であるし、経済のグローバル化は避けられないという論者である。むしろ、新自由主義を持続可能なものにするために、労働政策を重視しようという立場である。
中谷先生がかつての自分の「市場原理主義」を反省して懺悔した原点は、どうやらこのライシュ先生の本にあったようである。しかしながら、中谷先生は日本的経営にいまさら戻れると考えているのかどうか、その辺は分からない。

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