「ノルウェイの森」の7章に、小林緑という女子学生が、主人公のワタナベ君に向かって学生運動への批判をまくしたてる部分がある。
緑さんは、大学に入ったとき、歌を歌いたいからフォーク関係のクラブに入った。ところがそのクラブでまず、マルクスを読まされる。「フォークソングとは社会とラディカルにかかわりあわねばならぬものである」という演説を聞かされる。
「ディスカッションっていうのがまたひどくてね。みんなわかったような顔してむずかしい言葉使ってるのよ。それで私わかんあいからそのたびに質問したの。『その帝国主義低搾取って何のことですか?東インド会社と何か関係あるんですか?』とか、『産学協同体粉砕って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですか?』とかね。でも誰も説明してくれなかったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じられる?」
「信じられる」
「そんなことわからないでどうするんっだよ。何考えて生きてるんだお前?これでおしまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんなに頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を支えているのは庶民だし、搾取されているのはしょみんじゃない。庶民に分からない言葉ふりまわして何が革命よ、何が社会変革よ!・・・・」
「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えていないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみたらしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。・・・・」
ある日、夜中の政治集会に出るに際して、女の子たちが一人20個夜食用のおにぎりを作ることが命じられる。小林緑さんは、そんなの性差別だと思いながらも、波風を立ててもしょうがないので、従った。
ところが、「小林のおにぎりは中に梅干ししか入っていなかった」、ほかの女の子のには鮭やタラコや、たまごやきがついていた、と文句を言われた。
「もう、アホらしくて声も出なかったわね。革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのことぐらいで騒ぎまわらなくちゃならないのよ」ということになる。
この大学は、ほとんどがこんな調子の「インチキな連中」だと小林緑さんはまくしたてる。「みんな自分が何かをわかっていないことを人に知られるのが怖くてしょうがなくてビクビクして暮らしてるのよ。それでみんな同じような本を読んで、みんな同じような言葉ふりまわして」いるんだ、という。
「こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっとおにぎりに梅干ししかいれなかったという理由で銃殺されちゃうもの。・・・」
「ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから、革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼち生きていくしかないんだっていうことが。革命がなによ?そんなの役所の名前が変わるだけじゃない。でもあの人たちにはそういうのが何もわかってないのよ。あのくだらない言葉ふりまわしている人たちには。あなた税務署員って見たことある?」
「ないな」
「私、何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張るの。何、この帳簿?おたくいい加減な商売やってるねえ。これほんとに経費なの?領収書見せなさいよ、領収書、なんてね。私たち隅のほうにこそっといて、ごはんどきになると特上のお寿司の出前取るの。でもね、うちのお父さんは税金ごまかしたりなんて一度もないのよ。本当よ。あの人そういう人なのよ。昔気質で。それなのに税務署員ってねちねち文句つけるのよね。収入ちょっと少なすぎるんじゃないの、これって。冗談じゃないわよ。収入が少ないのはもうかってないからでしょうが。そういうの聞いてると私悔しくってね。もっとお金持ちのところに行ってそういうのやんなさいよってどなりつけたくなってくるのよ。ねえ、もし革命が起こったら税務署員の態度って変わると思う?」
私は「ノルウェイの森」を読んでどう感じたかを問われたとき、この部分が一番印象に残った、と答えた。そうしたら、私の友人は半ば「あきれた」と言った顔をしていた。
まあ確かに、この小説を読んだ読後感といえば、小林緑さんではなく、直子と彼女の死について語るのが普通なのかもしれない。
だが実際、この小説を読み進めていてこの部分に来たら、どうもこの小林緑さんのセリフに異様に力が籠っているようにワタクシは感じたのである。そして、「ははあ、これは作者の本音が乗り移ったということかな」と感じたのだ。
ただ、今回読み返してみると、小林緑さんは確かに家がしがない街の書店ではあるが、「庶民」と彼女が強調するほどに、彼女自身も実際お金に困っていたわけでもあるまいに、という感じを持った。
おそらく、彼女が両親に入れさせられた私立の中学・高校が「お嬢様」学校だったせいで、同級生の家族に比べれば確かに見劣りするという劣等感が、彼女をして「庶民」という言葉を連発させているような気がしたのである。
ほんとの「庶民」は自分のことを庶民とは言わないだろうけど、しかし、小林緑さんが自分をあえて「私は庶民」と言う気持ちはよく分かるのであった。というのは、この捨てゼリフのような小林緑さん言葉、全共闘運動批判としてはかなり痛いところを突いていると思わざるを得ないからだ。

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