三島由紀夫という作家がいたことを、いまどきの若い人はあまり知らないのかもしれない。もちろん、文庫本でまだその作品はかなり読めるから、忘れられたとまでは言えないだろうが、なんとなく文学の地盤低下を感じる。
ところで、三島由紀夫さんは最後は1970年に市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げるわけだが、彼は10代、20代の若者を集めて「楯の会」という、ミニ軍事組織を作っていた。
三島サンが自殺(自決)に追い込まれた最大の理由はなんだろうか?
それは楯の会という「おもちゃの軍隊」に若者を集めて「教育」していたら、時代は全共闘運動が全国の大学に起こり、新宿ではデモ隊が駅構内にまで乱入するような、騒然とした雰囲気になったことと関係する。
三島さんのブンガクの一つのテーマは、敗戦により崩壊して新しくなった時代を認めずに、言葉で「戦後」の時代を否定する虚構の世界を、さまざまな文学の方法を駆使しつつ、構築していこうというものだった。
そして1970年の騒然とした時代となり、これまで三島センセイの教えをありがたく拝聴していた若者たちが、そのような状況を受けて、「先生、いまこそ決起するときではありませんか」と逆に問い返され、引くに引けなくなったのではないか。
小集団の中では、その集団にのみ通じる言葉がもてはやされ、やがてある言葉がどんどん過激化して、外の世界との言葉との接点を失うまでに煮詰まるときがある。
言葉を華麗に操って、刻苦勉励の45年の生涯にたくさんの作品を残した三島サンは、最後に自分の発した言葉に拘束されて逃げ道を失ったのかもしれない。
おそらく彼をウラで唆してきた中曽根康弘サンや佐藤栄作サンなどの政治家は、彼の自決の一報を聞いて、「狂気の沙汰」だと述べた。つまりあれは「狂気」だから、オレとは関係ないよということか。
まあ、政治家というのは選挙の時に「死ぬ気で頑張ります」と言ったり、「公約が実現しなければハラを切ります」ぐらい言うかもしれない。しかし、決して死ぬ気なんかないし、ハラも切らない人たちですから、ホントに自決してしまった人が現れたことにうろたえたのかもしれない。
三島サンは知行合一の陽明学に傾倒していたが、知はすなわち「ことば」ということだろう。政治家は、どんなに激しい言葉を吐いても、「まああれは、選挙戦という状況の中で出た言葉でしたから、多少言いすぎがあったかもしれません」で済ませられるものになっている。
あるいは昭和天皇じゃないが、「そういう言葉のアヤについては、私はブンガク方面に詳しくないのでわかりません」ということか。
三島サンは、どうやら「言葉のアヤ」とか、あれは「異常時だったから」という言い訳が通じないエアポケットに落ちてしまったということかもしれない。言葉というものは、時に人間を拘束する恐ろしいものなのでありましょう。
しかし、1970年というときが果たしてホントに「決起」すべきときだったのかどうか。確かに紛争やデモがあちこちで吹き荒れていたようにも思えるが、それはマスメディアによって増幅されたものだったのではないかという気もするのだが・・・。
メディアのコトバは、政治家の言葉よりもっと軽いということが感じられる昨今だから言えることでしょうか?

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