日本には独自のユニークな文化があるという発想は、多くの日本人に好まれて来た。
「日本語」は世界のどの言葉に比べてもユニークだとか、宗教では「神仏習合」がユニークだとか言う。
だが、いちばんユニークなのは、「状況」倫理とでもいう日本人の心性かもしれない。
つまり、意識的にそう「した」というよりは、状況的にそう「なった」ということを好む。日本語表現でいえば、他動詞的であるより自動詞的・・・。
日本の社会には「対話」がない、ともいう。いや、その方がむしろ都合いい社会であったのだ。
「不言実行」が好まれる。「有言実行」は次善の策である。
正直に言えば、何か言う分だけ自分を縛り、都合が悪い。まして「有言不実行」は非難、嘲笑される。
沖縄に行って、つい聴衆から感じる熱気にあおられて「最低でも県外」と言ってしまった首相がいたけれど、岡田とか北澤(と呼び捨てにする)も去年の10月くらいまでは同じことを言っていた。
いずれにせよ、典型的な有言不実行である。まあ「不実行」であっても「不言」であれば評価の対象にならず、可もなく不可もなく生きのびられる。(現首相のこと?)
日本には、対話だけではなく、独自の思想体系も育たなかった。村の「寄り合い」もカイシャの「会議」も、基本的に考えを出し合って対話を積み重ねる場ではない。
そこは、不満やわだかまりの「ガス」を抜き、その次に、報告を中心に具体的な状況を「みんな」で理解し、外部に委託した「市場調査」によって、既成の行動のプランを確認する場である。(つまり、「迷走」の末に辺野古に戻る?)
原理・思想的なことを言いだす輩がいても、「で、具体的にはどうすればいいんだ?」と問い詰められ、それが出ないと「絵に描いた餅」と蔑まれる。
参加型の開発だの、双方向性のコミュニケーションだの、ワークショップだの、いろいろ新しい「手法」は輸入される。しかし、最後は結局、既成の行動計画を納得して、「みんな」がこの場で今日感じたことを、明日からの行動に生かそうなどと言われてお終いになる。
対話してもどうせムダだということが身にしみて体験している人々は、誰もわざわざ本気で対話して考えようともしなくなり、すでに見える形で存在する考えや行動、多くの場合すでに実行段階にあるものを模倣し、実行することで、まあ利益がでれば「ええんとちゃいまっか」ということで納得する。
現実的な功利主義なのか?無思想で立場も固定せず、状況を素直に受け入れ、フットワークが軽いことが好まれる。
マックス・ウェーバーを持ち出して、「結果責任」という言葉が過大解釈されるのもこの国の「かたち」かもしれない。
「岡田監督ゴメンナサイ」という懺悔の声が集まるのは、むしろ潔いと評価される。
しかし、そこには本当の「ふり返り」も、未来に向けての「反省」もなく、結局責任感も反省も育たない。
「未来志向」という言葉は、早く不愉快な過去を忘れ、現実に向き合わないことの言い訳に使われる。
そうした中で「差別化」が重視される。多くの者よりも一歩先んじることが大切だ。トップである必要はない。「二位じゃいけないんですか」は思わず出たホンネということで、象徴的だ。
日本社会で大切なことは、第二集団のトップをねらうことである。
人は第二集団のトップになるため、いかに近道を探すかに努力を傾ける。プロセスは気にせず、恥も外聞もなく前進するのは、この場合おおいに評価される。理屈は後から貨車で来る。
その道が正しいだとか、公平だとか、原理・原則だとかはどうでもいい。せいぜいが「タテマエ」に過ぎない。ホンネは、トップや大勢の醸し出す「空気」を読み取り、「ときの流れに身をまかせ」る。そのほうが、失敗しても責任が軽い。
乗り遅れるな。でも運転席には座るな。乗車口に立ち、なるべく早く乗り込み、なるべく早く乗り換えられる場所を確保しよう!

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