一時、指導力不足教員ということがマスコミを賑わせた。
しかしながら、ワタクシはどうもそのことに疑問を抱いてきた。マスコミの報道は一面的に過ぎるのではないか。
なぜなら、ワタクシの聞いたところでは、ベテランといえる教員が定年を前にした50歳代で退職するケースがかなりあったからだ。
明らかに自分の20年以上の経験や法則が通じない生徒が増えたということで、燃え尽きるように辞める人や、東京都の教育委員会のように、特定のイデオロギーを振りかざして学校を管理しようとする風潮に嫌気がさした人も多いのである。
おそらく、現象的には指導力不足教員の問題として現れたとしても、その背景には様々な問題があるに違いない。例えば、賞与も出ない期限付きに任用の非正規雇用教員が増えていて、生徒が放課後に質問しようとしたら、先生は勤務時間が過ぎていて、帰宅していたとかで、教員相互の支え合いがなくなってきたとか。
「リスクに背を向ける日本人」(山岸俊男・メアリー・C・ブリントン著 講談社現代新書)のなかで、こんな話が出ている。
「1980年代の終わりまでの日本では、高校生が就職を希望した場合、『安定したかたち』で職を得ることができました。というのも、就職を斡旋する学校と、過去の実績に基づいて採用を決める企業との結びつきが非常に強かったからです。生徒にとっては、高校生活にまじめに取り組み、きちんと先生の言う事を聞いていれば、先生(あるいは学校)が良い仕事を紹介してくれました。」
そうそう、就職希望の学生は、担任の先生と話し合い、企業の担当者は先生と直にコンタクトを取っていました。
「高校生活にまじめに取り組もうとしない生徒は先生から目をつけられて、良い仕事を紹介してもらえず」、「生徒にとっては先生が紹介してくれる仕事が高校生活にまじめに取り組むためのインセンティブとして」機能していました。(27ページ)
まあ確かに就職先斡旋をエサにして生徒を管理していたとも言えますが、それはそれでひとつの秩序だったわけです。
しかしながら、バブル崩壊以後は事務職が派遣社員に入れ替わったり、製造業の工場などのわりと大量に高卒者を採用する職場が減ったりしました。人は、それをバブル後の不況の一時的な不景気による採用の抑制だと考えていましたが、実は「構造的」な転換だったわけです。
そして、この構造転換に対応できるような別のシステムがいまだに構築されないまま、先生は生徒に対する管理の手段を失ったまま立ちつくしているということなんでありましょう。
こうなると、公立の進学者が多い高校以外の学校は、たちまち「教育困難校」に陥る危険が増大します。学校の雰囲気が荒れてくれば、中退も増えます。母子家庭で経済的な基盤が弱い生徒などが、ちょっとしたことで中退するケースも増えてきます。
家でまったく勉強しない高校生の比率が、日本人の高校生の場合、先進国の中でずばぬけて高いという調査結果もあるそうですし、「いわゆる進学校から一流大学へ進学するエリートたちと、そうした学歴競争から脱落してしまった高校生たちとの間に、勉強するかどうかだけではなく、生活態度一般について大きな差が生まれてしまった」(25ページ)なのでありましょう。
最近の教師はダメだ、不祥事を起こすような教師は厳罰だということを煽るマスコミ報道に対する不信感はつのるばかりです。
メアリー・C・ブリントンさんは、1990年代後半に日本に滞在して神奈川県内の高校などを聞き取り調査して「失われた場を探して ロストジェネレーションの社会学」(NTT出版)にまとめたのですが、このような就職先の企業と教師と生徒の関係性と、その喪失について調査報道したメディアの記事をワタクシは、この本が出る前に見たことがありません。
おそらく日本のメディアの人々は、自分のあらかじめ持つ「最近の教師は質が落ちた」という通念や思いこみを証明するような事実のみを追いかけて記事にしてるんでしょう。
要するに、あらかじめ自分の作り上げたストーリーに合致する事実だけを取材しているということです。フロッピーディスクを改ざんした某検事まがいのことををして、日々取材と称して記事を書いたり、テレビのニュース番組を制作している人たちが多いということなんでしょう。
いったい質が落ちたのは教師でしょうか、メディアでしょうか?

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