「現在のことだけしか知らないことと、過去のことだけしか知らないことのいずれが、人間をより保守的にするか、この点、私にはわからない。」(ケインズ「自由放任の終焉」)
このケインズの言葉はもちろん逆説的表現で、新しいことしか知らず、過去のことを知らない人は、いちばん保守的になると言いたいわけでしょう。
ケインズはもちろん、経済思想の話をしているわけだが、この言葉はいろんなことに当てはまりそうである。
水村美苗さんは、「『今のことしか知らない」のは、若い人には限らない。いい大人でも本を読まなければ「今のことしか知らない」。だが。若い人は、本を読んできた年月が必然的に少ないがゆえに、「今のことしか知らない」確率が高く、それゆえ必然的に、「保守的」である確率が高い」と書いている。(「エパテ・ル・ブルジョア」『日本語で書くということ』)
水村さんは、文学の世界では「新しい」と思っていること自体が「保守的」なのだという。
例えば、過激な言葉で人を驚かすのが新しい文学だと思い込んでいるのが、実は近代小説の誕生以来、常に繰り返されてきた古い手法だったりするのだという。
「過激な言葉で驚かそうというのは、究極的には、作家の自意識に関わることーーー自分は過激な言葉などには驚かない、自分は因習には囚われていない、すなわち「自分はそのへんの俗物とはちがう」という、作家の自意識に関わることであり、そのように自意識に関わることは、作品そのものに関わるよりも、よほど容易なことだからである。」
近代小説は、かたや商品でありながら、かたや芸術でもあるという矛盾した存在である。商品である小説を買ってくれない(自分の芸術を理解してくれない)人たちを、小説家(芸術家)は「俗物」と呼ぶ。
芸術家は自分を理解してくれない「俗物」を内心バカにしながら、しかし俗物の気を引こうと「俗物のド肝を抜く(エパテ・ル・ブルジョア)」言葉を繰り出してくる。だが、「過激な言葉で人を驚ろかそうして残った文学などない」のであった。
つまるところ、俗物も芸術家も等しく陳腐な存在であったということなのである。
これは何も「芸術」の世界にとどまらない。近代人そのものが、お金を媒介に市場に参画しなければならない存在であるにもかかわらず、一方で金に代えられない(かけがえのない?)固有名詞を持つ個人でもある。
だから、人は「かけがえのない自分」という言葉に弱く、つい騙されてしまうのである。

0