就職活動などしたことのないワタクシとしては、最近の大学生が就職活動で「自己分析」をやる、などという話を聞いてもなんだかよくわからないし、ましてや就活評論家みたいな人が、「まだ働いたこともない人が自己分析なんかにかまける必要はない」などと批判しているのを聞いても、なんのこっちゃとしか思えない。
だが、そう批判するアナタ様だって、その昔は結構「自分探し」みたいなことをしたんじゃないでしょうか?
しかしながら、ワタクシなどもさすがに年を取ると、「自分探し」はひょっとして、近代の病かもしれないなどと思ったりするのである。
フランスでは、ブルジョアという言葉は、「無私で無償で美的なものを解することができない人」と辞書(プティ・ロベール)に出ていたのでそうです。つまり「芸術家」に対する「俗物」のことだという。
もっとも、最初はただの町(ブール)の人という意味だったのが、フランス革命のころ、古い貴族階級と対立する新興の町人階級という意味になり、その後「俗物」の意味になったという。
フローベールの「ボヴァリー夫人」の主人公エンマは、百姓としては豊かな家に生まれ、分不相応な教育を受けたために、人生に多くのものを期待するようになったが、うだつの上がらぬ医者の家に嫁いでしまった。そのため、つまらない日常生活を恨むようになる。
フローベールは地方の農工業生産物展示を行う共進会での参事官、審査委員、村会議員などの「俗物」たちが繰り広げる俗臭芬々たる演説のなか、エンマを誘惑するロドルフという女たらしの男の恋のささやきを交互に描き出す。
「それは、エンマを陶酔させるロドルフの恋のささやきと、『俗物』たちの退屈極まりない演説とが、等しく陳腐なものでしかないという事実」、さらに言えば、「『そのへんの俗物とは違う』という自己申告の言葉と、『俗物』たちの言葉とが、等しく陳腐なものでしかないという事実」を描き出している。(水村美苗「エパテ・ル・ブルジョア」)
エンマにとってはロドルフの恋のささやきは、俗物たちの演説と対極にあるものに思えている。エンマは、恋など繰り返しにすぎず、始まる前からどう終えるかを考えているロドルフの言葉に誘惑され、恋に陥り、関係を持ち、やがて捨てられる。
やがてエンマ自身が恋を繰り返すようになり、最後は毒をあおって死ぬ。
まあ話は近代の恋愛というものの運命に限ったことではなく、文学でも、ビジネスでも、政治でも、ガクモンの世界でも、「自分はそのへんの奴らとは違う」と思いたくなる病がいつも潜んでいるということなんでしょうが・・・。
テレビのコメンテーターだって、あまりに身もフタもないことを言ったら、もう「来週からお断り」になってしまう。
就職試験で「この会社は仕事が楽そうなわりに給与もまあまあみたいですから」なんていう訳にもいかないし、「あなたとケッコンすれば、経済的に・・・」なんていう訳にもいかない。
そこで何らかのもっともらしい「自分語り」をしないとサマにならないのが、われらの生きる「近代」っていうもんでございましょう。
われらはエンマでなく、ロドルフにならなければ生き延びることはできないのである。

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