自分の奥の奥の奥の底の底の底に眠っているもの、
に気づくために
もしかしたら私達は生きているのかもしれない。
いや、そんな風なテーマを持ってこんせいを生きている人ばかりではないかもしれない。
でも、私はそうなのではないか、と感じている。
私は幸せだったり、楽しかったり、
とにかく浮かれていると言われることをすることに、ものすごく抵抗がある。
全然たいしたことでなくて、普通に人がしていることでも、
抵抗がある。
嬉しく楽しいことをしていると、誰かにしかられるような気がしてしまうのだ。
だれかが、突然私に起こってくるような気がするのだ。
そして、この間、その誰かを、誰だと思っているのか、
ということに気がついて、
びっくりすると共に、納得した。
私は、今でも、父に怒られてしまう、とおびえているのだ。
外で楽しいことがあった日。
楽しいことと言っても、仕事終わりにご飯を食べて帰る(8時くらいに)程度のことでも、
父が激怒し、叱責された。
父は、母や私が楽しそうにしているのが、とにかく気に入らない人だった。
そのくせ、辛いことを我慢しているのが顔に出るのも、だめだった。
自分が命じた辛いことを、さも普通のことのようにさらりとこなすのも、まただめだった。
基準は、そのときの父の自分の気分だった。
父は、自分が企画したり自分の監督下でないところで、
私達家族(母、私、妹)が楽しむことが、許せない人だった。
自分が与えた娯楽(と父は思っているが、こちらにとっては苦行に近いこともある)だけを、嬉々として受け入れるべきで、
それ以外は、自分に対する裏切りだと思っていたようだ。
決して、子供をかわいいとか愛しているとか思ってるふうは無かった。
よく、「親子だからわかってもらえるはずだから、話し合いなさい」とか
「親子なんだから、絶対かわいいと思っているはずだよ」という人がいるが、
その人たちは、普通の家庭に育った人なんだと思う。
世の中には、本当に自分しか愛せない人がいるのだ。
そういう人には、どんなものさしも通用しない。
それなのに、今、私や妹に向かって、
「子供はまだか」としょっちゅう言う。
全然子育てなんて楽しそうじゃなかったくせに。
意思を持たない言葉を話さない乳児までは愛せるらしい。
しかし、少しでも意思を持ち、自分の判断を持ち始めると受け付けない。
だから、記憶の中で、父にかわいがられたとか、愛されたとか、そういう思い出が何一つ無い。
いつもおびえていたし、その場を丸く治めようと子供也に必死だった。
そんな父は、どうして私たちに、子供を持つことを進めるのだろう?
今はギャンブル依存症で、アルコール依存症で、金遣いの荒い年金生活者の父。
彼がいなくならない限り私は幸せになれないと、
20代の頃は本気で思っていた。
まとまりが無いですが、また後日。

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