最近、西部邁氏の「思想史の相貌」を手に入れた。
福沢諭吉に始まる近代日本の思想家について論じたものであり、当然ながら西部氏が私淑した福田恆存論も掲載されているので、まずはそこから読んでみた。
西部氏は福田論の中で、「一匹と九十九匹と」について「反政治をいうものではないし、ましてや芸術至上主義につらなろうとするものではない」と断言しているが、これは私も同感である。
ネット上の福田恆存読者たちを見ていると、「一匹と九十九匹と」を「政治に対する文学(芸術)の優位」と解釈している人が多いと強く感じる。
芸術と生活は峻別されなければならない。しかし次に両者のあいだに反発と融合の物語がはじまるのでなければ、芸術と生活にたいする懐疑が、そして深き懐疑のはてに展望される芸術と生活にたいする信頼が、うまれてこない。芸術についていえば、生活を写実するだけの芸術は駄目であるが、同じく、生活につながらない芸術も駄目なのである。生活と芸術の相互応答が順調にすむとはとても思われないものの、最低限いえるのは、美神の訪れを期す構えがあって生活の質が維持されるのであり、また、人生の感動を待つ心があって芸術の質が保持されるだろうということである。
西部邁『思想史の相貌』より一部抜粋
「芸術」と「生活」の二元論こそが福田恆存の思想の骨子であり、西部氏もその点は正しく理解していることを示した文だと思う。
最後に痛快な一文を紹介。
(中略)たぶん旧体の国語を使っているということからくる安心感のために、思考、道徳、人格がソフトになりすぎている文筆家がいることも知っている。
西部邁『思想史の相貌』より抜粋
文筆家というか、そういうブロガーなら何人か私も知っている。
固有名詞出すとまた叩かれるから、今回はあえて挙げないが。

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