2014/12/29  23:54

隣りの大国インドに比べ、格段に居心地の良い島国スリランカ(その2)  国内外からのトピックス

■筆者は、南アジアの国々としては、これまでインドを8回、パキスタンを3回、バングラデシュを1回訪問していますが、スリランカは今回が始めての訪問です。そのため、インドとよく似た国なのだろうと勝手に思い込んでいましたが、実際にこの国を訪れてみると、同じ島国で仏教徒という共通性のせいか、非常に居心地の良さを感じます。
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コロンボ市内にある仏教寺院ガンガラーマ。


 確かに、たくさんの仏教寺院があり、街中の至る所に祠を見かけます。寺院を訪れると、熱心に仏像に手を合わせている仏教徒の姿を見ることができます。インドではヒンズー教にとってかわられた仏教も、ここスリランカではシンハラ人により手厚く信仰され続けています。

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コロンボ市内のベイラ湖の湖上にあるガンガラマヤ寺院。通称「水上寺院」とも呼ばれている。

 スリランカの民族構成は、シンハラ人が73%、タミル人18%、ムーア人8%、その他1%で、宗教構成は仏教70%、ヒンズー教10%、イスラム教8.5%、キリスト教11.3%などとなっています。

 概ねシンハラ人は仏教徒でシンハラ語を話し、タミル人はヒンズー教徒でタミル語を話し、ムーア人はイスラム教徒でアラビア語系のタミル語を話す者が多くいます。

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タミル人が多く住むジャフナ市の出入り口にあるアーチ型のゲート。
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北部地域の要所にあるジャフナ市内のヒンズー寺院。

■このような民族構成は、スリランカの歴史で、シンハラ人とタミル人との間の確執を生んできました。とくにスリランカ独立後の1956年にシンハラ語を公用語とする「シンハラ・オンリー」政策がきっかけで、シンハラ人と少数派タミル人の対立が生まれました。この民族間の紛争は、仏教とヒンズー教という宗教対立に結び付けられたのでした。

 1983年にスリランカ政府と反政府組織のタミール・イーラム解放の虎(Liberation Tiger of Tamil Ealam: LTTE)との対立激化でスリランカは内戦状態となり、外部からの干渉や内部対立で泥沼化して、この状態が2009年5月まで続きました。この間、政府側(軍や警察)に約2万3千人、反政府側(LTTE及びタミル人民兵ら含む)に約2万7千人、合計約5万人の犠牲者を出しました。(内戦の経緯は末尾記事参照)

 とりわけ、2005年から2009年までの第4次イーラム戦争は北部地域で猛烈な激戦が繰り広げられました。

■今回、スリランカ政府の許可を得て、北部地区を取材しましたが、北部のジャフナに向かう国道A09号線をアヌラダプラから北に向かって車を走らせると、メダワッチヤを通過し、右手に仏教遺跡のイシンベッサガーラを見て、さらに5分ほど走ると左手にスリランカ海軍の北部中央司令部があります。ここは内戦時、LTTEの最前線基地だったところです。

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イシンベッサゴーラ仏教遺跡。ブッダは、ここスリランカ当地に弟子と一緒に初めて訪れたという。この遺跡から北へ30キロの地点は内戦中、激戦地だった。
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遺跡の岩山からみた周辺の景色。たまたま木のてっぺんにクジャクが1羽とまっていた。

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シータイガーと呼ばれたLTTE海軍の高速ボート。トリンコマリにある海軍博物館に展示してある。シンハラ人のシンボルがライオンなので、タミル系のLTTEは虎をシンボルにしたという。
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銃弾の跡が戦闘の激しさを物語る。

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正面に爆薬の信管が備えられ、港に係留中の商船に突入して自爆するシステムになっている。

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戦利品の日本製水上バイク。

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LTTEの半潜水式自爆ボート。両足を失ったタミル人民兵が志願して操縦したという。動力に使われているのは日本製船外機。

 さらに国道A09線を30キロほど北上するとバブニヤの町を通過します。そこから15キロほど行くと、オマンタイという場所に検問所があります。そこで、通貨許可証を提示してから更に北に15キロ走るとプリヤンクラム、更に20キロでマンクラム、そしてさらに40キロほど北上するとキリノッチに着きます。

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バブニヤ近郊地図。

 ここは内戦時、LTTEの事実上の首都だったところです。街を通過する際、道路の右手に
ゴロンと横倒しになった給水塔が見えます。これは2008年11月〜2009年1月にかけてこの街を舞台に激戦が展開され、最終的に政府軍の攻勢で、LTTEがこの街を撤退する際に、インフラ設備の象徴としてこの給水塔を爆破したのでした。

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2009年1月にLTTEによって爆破された給水塔。政府軍にキリノッチを奪還されそうになった際、破壊して逃走したもの。北部地域は平地なので水源の確保が性格にとって重要なため、給水塔の破壊によりLTTEに対する民衆の支持が決定的に損なわれたといわれる。

 キリノッチを過ぎると約5キロで、エレファントパスというコーズウェイに出ます。ここは両側が海になっており、最北端のジャフナのある地域への交通の要衝となっています。地名が示す通り、象1頭がやっと通れるように細く狭い海の中の道ですが、A09線の再建と鉄道線路の新設により、現在は車であっという間に通り過ぎることができます。

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現在は国道と鉄道が並走するエレファントパス。

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キリノッチ周辺の地図。

 北部地域には内戦中、数百万個の地雷が敷設されたとされていますが、現在は国道09線沿線はすべて除去され、湿地帯の一部でまだ地雷除去が済んでいない地区を残すのみとなっています。

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キリノッチ市の南の郊外にあるイラナマドゥにできた集合店舗。内戦末期、このあたりは激しい砲撃で立木も吹き飛び、あちこち穴だらけだったという。

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北部ジャフナ近郊地図。

■ちなみに、この内戦では、欧米諸国が人道的観点からスリランカ政府軍側への批判を繰り返したため、中国やパキスタンが政府軍に武器や物資を大量に援助したのでした。

 このため、現在スリランカ政府は中国からの支援に対してさまざまなコミットをしており、スリランカへの海外からの援助額も、2008年までは日本がトップでしたが、その後は中国がトップとなっています。

 現在、中国の有償支援によって空港や港、巨大な電波塔の建設が進められ、さらに大勢の中国人観光客もスリランカを訪れています。中国人観光客は、スリランカのあとモルジブを旅行するそうですが、いずれもインド洋のシーレーンを挟んで位置する地理的に重要な場所です。中国政府による、インド洋の真珠の首飾り政策と呼ばれる戦略により、この両国に対する中国政府の力の入れようは尋常ではありません。

 取材班が車でジャフナまで走った国道A09線建設プロジェクトにしても、中国のゼネコンである中国国際工業集団公司所属の中航国際工程公司が2009年12月に請け負って、2011年2月に正式着工し、2013年6月15日にアヌラダプラ郊外のガルクラマからジャフナまでの全長154qを、契約金額1.67億ドルで完成させたものです。

■紛争終結後、復興需要を中心とした内需拡大や、治安回復に伴う外国人観光客の増加により、スリランカ経済はGDP比8%前後の高い経済成長が続いています。その結果、同国は2016年までに所得倍増と中進国入りを目指しています。

 内戦後のスリランカにおける中国のプレゼンスは著しいものがあります。しかし、2008年まで援助国としてトップだった我が国にとって、また、サンフランシスコ条約で日本を擁護してくれたスリランカが、我が国にとって引き続き重要なパートナーであることは間違いありません。

【ひらく会情報部・海外取材班・この項続く】


※スリランカ内戦〔抜粋〕(出典:Wikipedia)
 スリランカ内戦は、1983年月23日から2009年5月18日にかけて展開されたスリランカ政府とタミル・イーラム解放のトラ (LTTE) による内戦。スリランカ政府軍がLTTE支配地域を制圧して26年にわたる内戦は終結した。

<経緯>
 スリランカでは、総人口のうち7割を多数派民族であるシンハラ人が、2割弱をタミル人が占めており、タミル人は主に島の北部・東部を中心に居住する。両者は古代より混住してきたが、イギリス植民地時代にタミル人を重用する分割統治政策がとられたこと、および独立後にその反動として、1956年のシンハラ語公用語化を始めとするシンハラ人優遇政策がとられたことにより、民族間の対立が高まっていた。
<LTTEの設立>
 民族対立が深まる中、1972年にはヴェルピライ・プラバカランにより武力によりスリランカからの分離独立を目指す新しいタミールの虎 (TNT) が結成される。TNTは1975年に北部ジャフナの市長を暗殺するなどテロ活動を続け、同年TNTを母体にタミル・イーラム解放のトラ (LTTE) が結成された[14]。
<内戦の推移>
■第1次イーラム戦争
 1983年7月、ジャフナ近郊のティンネウェリでLTTEが政府軍を襲撃し13人が殺害された。これに対してコロンボ市内で反タミル人暴動が勃発、シンハラ人によるタミル人虐殺が市内各地で発生した。
 その後、LTTEと治安部隊による虐殺の連鎖が続くものの、1985年7月にインドの仲介によりブータンの首都ティンプーで和平交渉を開始する。1987年7月から1990年3月にかけては、インドによる平和維持軍(英語版)の派遣が行われた。当初インド政府はLTTEよりの立場であったが、武装解除を巡り交戦状態となった。
■第2次イーラム戦争
 1990年6月7日の停戦崩壊から始まる戦い。和平交渉の失敗により戦闘が再燃した。LTTEはこの間、1991年5月21日には平和維持軍派遣を決めたインドの元首相ラジーヴ・ガンディーを、1993年5月1日にはスリランカ大統領のラナシンハ・プレマダーサ(英語版)を暗殺している。1995年1月7日に停戦に合意。
■第3次イーラム戦争
 1995年4月19日の停戦崩壊から始まる戦い。この戦いでは、LTTEのスティンガーミサイルにより政府軍機が撃墜されるなどした。また2001年7月24日にはバンダラナイケ国際空港襲撃事件が発生している。2002年2月22日にノルウェー政府の仲介で無期限停戦に合意。
■和平交渉
 停戦中に6回の和平交渉が行われる。連邦制による和平実現への期待も高まったが、合意には至らなかった。この間の2004年3月には、LTTEの東部方面司令官であったビニャガマムーシ・ムラリタラン(英語版)(通称カルナ司令官)が同勢力を離脱、カルナ派を立ち上げている。以後カルナ派は政府軍とともに、LTTEとの闘争状態に入る。
 2004年12月にはスマトラ島沖地震が発生、津波によりLTTE支配地域の北部・東部も含むスリランカ沿岸部に大きな被害を出した。クマーラトゥンガ政権はLTTEと共同で復興に当たることを提案するも、最高裁判所の違憲判決により実現しなかった。
■第4次イーラム戦争
 2006年7月26日のスリランカ空軍によるLTTEキャンプ空爆から始まる戦い。2005年11月にマヒンダ・ラジャパクサが第6代大統領に就任して以後、政府とLTTEは「低強度の戦争状態」と表現されるLTTEの停戦違反が繰り返されるものの戦争状態とも言えない不安定な状態にあった。政権側は当初LTTEとの和平を模索したものの、2006年4月の停戦協議離脱宣言と陸軍司令官サラス・フォンセカ(英語版)への自爆テロ並びに7月に東部バッティカロア県北部で農業用水が遮断されたのを機に、LTTE殲滅へと乗り出した。
 中国やパキスタンから資金面・軍事面で大規模な援助を受けたスリランカ政府は、これまでの戦いではほとんど投入されてこなかった海軍・空軍も用いて総力戦を展開。対するLTTE側も、2006年10月のシー・タイガーによる南部ゴール港襲撃を始め、2007年3月には首都近郊のカトゥナーヤカ空軍基地を夜間空襲するなど激しい抵抗をみせるが、2007年7月にカルナ派と協調した政府軍により東部州が制圧されると次第に弱体化。11月には本拠地キリノッチへの空爆で、LTTEのナンバー2で政治部門トップであり、和平交渉の窓口であったスッパヤ・パラム・タミルセルバン(英語版)も死亡した。翌2008年1月、スリランカ政府は停戦協定を正式に破棄した。
 政府軍はさらに攻勢を強め、2008年8月には西海岸におけるシー・タイガーの拠点を攻略、2009年1月2日にはキリノッチを、25日には最後の都市拠点ムッライッティーヴーを攻略した。政府軍に追われたLTTEは、4月に入りついにムッライッティーヴー北部の20km²ほどの海とラグーンに挟まれた細長い地域に追い詰められることとなった。LTTE側は防御陣地を構築するとともに、20万人ものタミル人避難民を人間の盾としながら同地に立て籠もって抗戦を続けた。政府軍は4月20日より大規模な避難民救出作戦を敢行、この作戦により15万人あまりの難民が同地から脱出した。5月に入り、国際社会が遅まきながら難民保護のための停戦要求を強めるも、政府軍は攻撃を続行。最終的に5月半ばには沿岸部の制圧が完了、17日にはLTTEのセルバラサ(英語版)広報委員長も戦闘放棄を発表した。翌18日にはLTTEの最高指導者であったヴェルピライ・プラバカラン議長の遺体も発見されている。ラジャパクサ大統領は19日、国会で26年に亘った内戦の終結を宣言した。
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