2015/9/19  8:38

安保法案が参議院でも可決され、大きく方針転換をすることになった我が国の安全保障政策の行方  国内外からのトピックス

■シルバー連休に突入した2015年9月19日の深夜未明、午前2時18分は、戦後70年を経た我が国の歴史の大きな節目となりました。これで日本も「普通の国」になったと喜ぶ安倍政権ですが、「普通の国でなかった」日本がこれまで世界に発信できてきたことが、これからも続けられるどうか、戦後、不戦を誓い実践してきた日本国民にとって試練が待ち構える未知の領域に足を踏み入れる瞬間でもあります。いつの間にか、いつか来た道を歩むことのないように、国民一人一人の自覚がいっそう大切です。


 安保法案の成立に向けた安倍首相の発言の中で、とくに気になる箇所があります。「いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜く」という力強い決意の部分です。本当にこれで安倍首相が「結果的にこれでよかったことがやがて国民の皆さんにも分かります」というとおり、国は、国民の命と平和な暮らしを守り抜いてくれるのでしょうか。

 この国の約束は国民として信じるに足りるものでしょうか。そのために一番手っ取り早く確かな検証方法は、かつて実際に、国の言葉を信じて戦争を体験した方々に聞いてみることでしょう。筆者の場合、1978年10月に他界した先代の肉親から、戦争の体験談をいつも聞かされていました。戦争により翻弄された人生の体験談です。

■大正8年(1919年)1月3日に養蚕農家の三男に生まれた先代(故人)は、昭和10年(1935年)3月に旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業しました。同窓生には、その後、大勲位とよばれた中曽根康弘・元首相もおりました。

 卒業後、先代は、東京都越中島の東京高等商船学校(現・東京海洋大学)に入学しました。なぜなら、群馬県は海無し県だったこともあり、「海外に出て、いろいろが国々を見て回り、なにか興味のある物産などあれば貿易の仕事をしてみたい」という夢をいだいていたからでした。また、高等商船は、学費が無償であったため、農家の三男として家計への負担が無くて済みました。

 さらに高等商船は、募集人員が航海・機関科それぞれ数十名と少なかったことから、将来、高級船員という当時の花形職業に就けること、また、高級船員が民間外交官の役割を担っていたこと、海軍予備員制度により、徴兵が猶予され、卒業後は予備士官に任官されることなどから、難関校として知られ、全国から秀才が集まりました。

 東京高等商船の校章は、羅針盤を模したもので、神戸高等商船はコンパスマークの中央に桜花がデザインされたものでした。制服は、冬服はネイビーブルーの詰襟、夏服は純白の詰襟で、袖にはイギリス海軍士官候補生の制服を模した三つ釦(オリオン座を意匠したもの)が着き、襟部には碇型の海軍生徒徽章を佩用したもので、今でも先代の残した写真アルバムを見ると、颯爽とした姿が印象的です。

 また、当時では珍しく外国語として英語の他、航海科はフランス語、機関科はドイツ語を習得していました。

 徴兵は猶予されましたが、高等商船学校に入校した生徒は、入学のその日に海軍予備生徒に任命されて兵籍に入りました。海軍予備生徒の身分は、海軍三校(海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校)の生徒に準じ、軍の階級上は、海軍下士官の上位、准士官の下位に位置づけられていました。

 カリキュラムは、3年間の席上課程に加えて、1年間の海軍による軍事実習課程として、海軍砲術学校練習課程への入校・修業等を行い、1年から1年6か月程度の乗船実習課程から構成されていました。また全員が卒業まで寮生活を過ごし、教育・生活全般が海軍方式をそのまま採用していました。

■こうして先代はみっちりと5年半にわたる学業及び精神面で帝国海軍の真髄を叩き込まれたあと、1940年(昭和15年)9月に東京高等商船を卒業しました。卒業後は民間の船会社である日産汽船鰍ノ就職することが決まっていました。しかし、戦局は既に太平洋戦争への突入間近であり、結局3ヶ月在籍しただけで、太平洋戦争の開戦を迎え、招集されてしまいました。これで、商船の高級船員となる夢は戦争に勝利するまでお預けとなったわけです。

 もともと高等商船では、卒業すると同時に、航海科専攻者は兵科の海軍予備少尉、機関科専攻者は機関科の海軍予備機関少尉に任官し、有事の際は召集され軍務に服する義務を負っていましたが、太平洋戦争が実際に開戦となってしまい、この義務がさっそく適用されることになったわけです。

 太平洋戦争前後に、筆者の先代は、中国の青島と南方の昭南島(シンガポール)を訪れたことがあると語っていました。中国の青島は戦艦山城での練習航海だったようなので、おそらく東京高等商船在籍当時のことだったものとみられます。

 一方、シンガポールの方は、カンボジア沖で潜水艦による魚雷攻撃を受けて搭乗艦がいわゆる「ボカチン」を食って沈没したため、重油の海を泳いだ経験をはなしていました。幸い、救助されて、シンガポールにたどり着き、その時に思い出として、現地で英語が通じたと語っていました。

 しかし太平洋戦争ではもはや艦船が洋上戦闘の主役ではなく、航空機の時代となっていました。予め長期的な人員計画を怠ってきた日本海軍は、航空機の搭乗員と共に、整備員の補充も急務となってきました。そのため、東京高等商船の機関科出身だった筆者の先代は、昭和17年後半になると、航空機の整備要員としての任務を与えられたのでした。

 しかし、船の機関と、航空機用機関とは、同じ“機関”であっても、その仕組みは全く異なります。このため、急遽、航空機整備の教育訓練を受けることになりましたが、昭和17年6月5日〜7日のミッドウェー海戦での大敗北以降、戦局もどんどん悪化し、短期間に整備技術を習得することが義務付けられているために、夢中で膨大なテキストを読みこなしたそうです。もちろんエンジンばかりでなく、航空力学も、構造学も知識として知っておかなければなりません。その苦労が偲ばれます。

■折から、ミッドウェー海戦等で日本の空母が多数喪失したことから、日本海軍は所有している戦艦のうち、日向と伊勢を航空戦艦として改造し、そこに艦上爆撃機を22機搭載して空母の代わりを果たそうと計画しました。ところが、昭和17年12月呉工廠で伊勢の改造に着手し、工事が終わったのはミッドウェー海戦から1年3ヶ月後の昭和18年9月でした。一方、日向の改装は昭和18年5月に開始され、同11月18日に完了しました。ところが完成しても、艦載機の調達のメドがすぐには立ちませでした。それほど航空機の消耗が激しく、生産がもはや追いつかなかったのでした。

 昭和19年5月になり、ようやく伊勢、日向に搭載するための海軍634航空隊(634空)が編成されました。この時、初めて先代も整備予備少尉として配属になったものとみられます。同隊の使用機種は艦上爆撃機の彗星と、水上偵察爆撃機の瑞雲でした。両機とも愛知航空機が製造していましたが、生産機数が足りず、ようやく必要な機数が揃ったため、同航空隊が編成されたと見られます。

 世界に例を見ない航空戦艦として、さらに防空能力を高めるため、海軍は対空機銃を増設すべく、昭和19年5月31日から6月20日にかけて両艦を呉工廠のドックに入れました。ところが、ちょうどその最中の6月19日〜20日にマリアナ沖海戦が起き、事前に日本軍の作成資料を入手して周到な準備をしていた米軍によって残存空母や多数の航空機が破壊されてしまいました。

 そのため、伊勢と日向に634空を搭載する話は立ち消えになり、同航空隊は母艦を離れて、基地航空隊として作戦活動に従事することになりました。もしこの時、同航空隊が両艦を母艦とし続けることになっていたら、おそらく筆者の先代はその後の海戦で戦死していたに違いありません。そうすれば筆者もこの世に存在しませんでした。

 マリアナ沖海戦で、マリアナ諸島と制空権、制海権を米軍に奪われた後、昭和19年10月12日〜16日には、米国の空母多数を擁する機動部隊が北上し、これを迎え打った日本海軍の基地航空隊との間で台湾沖航空戦が起きました。この時、634空は沖縄を経由して、台湾に移動し、作戦に参加しました。瑞雲による水上爆撃隊はこの時、台湾の東港基地に移りました。この海戦では、大本営は戦果を過剰に見誤り、その後の作戦にも悪影響を及ぼしました。

■なお、これと前後して、米軍のレイテ島への侵攻を受けて、昭和19年10月10日に大本営海軍部により捷一号および二号作戦準備が発令され、同10月18日に捷一号作戦が発動されたのです。

 これに呼応するため、昭和19年10月24〜25日にかけて、634空も台湾・東港基地からフィリピンのルソン島のマニラ湾の入り口にあるキャビテ水上基地に進出しました。先代は、ここで昼間は米軍機の攻撃を避けるために、森林に退避して整備作業を続け、夜間に水上爆撃機の瑞雲を出撃させるというハードな毎日を送っていたそうです。

 戦後、昭和51年2月、先代が59歳で急死する3年ほど前に、実際にフィリピンのキャビテを訪れたことがあります。その時はフィリピン沿岸警備隊の航空基地として使われていましたが、守衛に事情を話したところ15分間だけ中に入れてもらえました。先代が、懐かしそうに回想している姿を今でも思い出します。「このヤシの木は当時のままの位置にある。ここで米軍の機銃掃射を受けて自分はこのヤシの陰に隠れて助かったが、戦友が撃たれて亡くなった」15分はあっという間に過ぎ、先代は名残惜しそうにしていたのを思い出します。

■当時の作戦資料によると、連日、レイテ島に上陸する米国の輸送船団に対して夜間攻撃を敢行していたことが分かります。

<昭和19年>
 11月 1日:「索敵攻撃」「瑞雲」水爆6機が終夜索敵攻撃を行う。
 11月2〜3日:「タクロバン飛行場夜間攻撃」「瑞雲」水爆6機が攻撃を行う。
 11月22日:「タクロバン飛行場夜間攻撃」「瑞雲」水爆でレイテ島タクロバン飛行場の夜間攻撃を行う。
 11月23日:「タクロバン飛行場夜間攻撃」「瑞雲」水爆でレイテ島タクロバン飛行場の夜間攻撃を行う。
 11月25日:「マニラ東方索敵攻撃」「瑞雲」水爆でラモン湾の機動部隊を攻撃。
 11月26日:「レイテ湾輸送船団攻撃」「瑞雲」水爆でレイテ湾輸送船団を攻撃。
 11月29日:「魚雷艇索敵攻撃」「瑞雲」水爆でボソン沖東方カニガオ水道北の魚雷艇を攻撃。
 12月11日:「レイテ島攻撃」「瑞雲」水爆でレイテ島西岸米攻略部隊の攻撃。
 12月12日:「レイテ島攻撃」「瑞雲」水爆でレイテ島西岸米攻略部隊の攻撃。
 12月15日:「ミンドロ方面輸送船団攻撃」「瑞雲」水爆3機が、パナイ海及びパナイ島周辺の米攻略部隊の索敵攻撃に成功。
 12月16日:「イリン海峡輸送船攻撃」「瑞雲」水爆2機が、ミンドロ島南端、イリン島間の水道で、輸送船4隻を攻撃。
 12月19日:「サンホセ爆撃」薄暮「瑞雲」水爆3機が、サンホセを爆撃。
 12月21日:「サンホセ沖索敵攻撃」「瑞雲」水爆でサンホセ沖の米艦船索敵攻撃。
 12月26日:「ミンドロ島サンホセ沖偵察及び飛行場攻撃」薄暮「瑞雲」でサンホセ沖偵察及び北飛行場を攻撃。
 12月29日:「サンホセ沖輸送船団攻撃」「瑞雲」水爆でサンホセ沖の米輸送船団を攻撃。
 12月30日:「サンホセ沖輸送船団攻撃」「瑞雲」水爆でサンホセ沖の米輸送船団を攻撃。
<昭和20年>
  1月 2日:「サンホセ沖輸送船団攻撃」「瑞雲」水爆でサンホセ沖の米輸送船団を攻撃。
  1月 8日:六三四海軍航空隊は、水上偵察機の航空隊に改編。第一航空艦隊に編入。
  1月13日:キャビテ湾カナカオ基地より台湾の東港基地に引き揚げる。
  1月15日:「夜間哨戒飛行」東港基地所在の901空と合同で作戦を開始。
  1月26日:「南号作戦/台湾南方海面索敵」「瑞雲」水爆で東港基地を発進。
  1月末迄:司令、飛行隊長、搭乗員、地上員約250名が東港基地に引上げる。
  2月 7日:「南号作戦/台湾南方海面索敵」「瑞雲」水爆で東港基地を発進。
  3月中旬:台湾北部の淡水基地と、周辺の士林に基地をもうけ移動。
  3月27日:奄美大島の古仁屋基地に前進。本隊は淡水基地、補充及び錬成は福岡県玄界基地に置く。
  3月29日:「沖縄周辺敵艦船攻撃(第一次)」
  3月31日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  4月 4日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  4月 5日:「沖永良部島周辺敵艦船攻撃」
  4月 7日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  4月20日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」古仁屋を発進。与論島周辺にて大型駆逐艦2隻を発見。うち1隻を攻撃、二五番爆弾1発を命中させ轟沈。
  4月28日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  同日:「鍋島南岸索敵及び沖縄周辺敵艦船攻撃」
  4月30日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  5月:横浜基地で錬成中の偵察第三〇二飛行隊が、第六三四海軍航空隊に編入された。
  5月 6日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  5月 7日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  5月10日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  5月13日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  5月17日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  5月19日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」
  5月20日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」伊江島南方10浬に駆逐艦護衛の輸送船団を発見。攻撃を行い、中型輸送船1隻を轟沈。
  5月23日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」伊江島北方海域で戦艦2隻を基幹とする10数隻の艦艇群、駆逐艦8隻護衛の輸送船団50隻を捕捉。激しい対空砲火の中を突入、駆逐艦1隻を轟沈。
  6月:第五航空艦隊に編入。
  6月11日:古仁屋基地より桜島基地に移動。
  6月26日:「沖縄周辺敵艦船攻撃」最後まで瑞雲を駆って奮戦した宮本平治郎大尉未帰還。

■先代によれば、昭和20年1月13日にキャビテ湾カナカオ基地から引き上げる際に、司令に呼ばれて言ってみると、「長い間ご苦労だった。最後の司令偵察機で台湾に向かうが、お前も一緒に乗れ」と言われたそうです。「整備担当で司令機に同乗させてもらったのは自分一人だった」そうです。

 台湾の東港基地に移動したあと、先代は2週間かけて東港から台北まで陸路で移動したそうです。その時の台湾の風景としてサトウキビ畑の話をよく語っていました。

 先代はその後、休養を兼ねて九州本土に戻り、まともな風呂に入ったり、散髪屋に行ったりして、熱帯での過酷な戦闘のアカを落としたそうです。しかしそれもつかの間、沖縄戦が始まったため、昭和20年3月27日から奄美大島での任務を命じられ、今度は沖縄戦のために夜間出撃する瑞雲の整備に連日従事することになったのでした。

 ここでも、昼間は瑞雲の機体を防空用の偽装ネットでカモフラージュしながら整備を行い、夜間出撃を見送るという毎日で、最後の6月11日には、奄美大島から桜島基地に移動し、反復攻撃に従事し、沖縄戦が終了する6月23日前後まで僅かに残った瑞雲を必死に整備をして出撃させたのでした。

 先代は、幸い整備担当でしたので、直接戦闘に巻き込まれることは有りませんでしたが、昼間の敵機による攻撃を受けることはたまにあったそうです。

■その後、終戦をどこで迎えたのかは聞きそびれましたが、終戦時には、正七位(海軍大尉)に任ぜられたことが、現存する証書で確認できます。

 終戦後は、船舶や航空機の機関技術の知識を活かそうと、小松製作所に職を求めようとしたことも有ったそうですが、結局実現せず、また、武官だったため公職追放の対象となり、最後には食糧増産の国家スローガンに沿って、実家に戻り、家業である農業や養蚕業に従事しました。

 また、同じく海軍で主計少佐として終戦を迎えた高崎中学の同期だった中曽根康弘が戦後昭和21年に内務省を依願退職し、昭和22年に青雲塾を旗揚げして戦後の日本復興を目標に掲げて政治活動を始めることになったため、同じ海軍というよしみで協力を依頼され、先代も中曽根康弘の心情に賛同し、同年の第23回衆議院総選挙では票集めに尽力をしたそうです。

 その後、中曽根康弘は政界に強固な足場を築き、知名度を上げて行きましたが、それと並行して、当初の青雲の志が曇りがちとなってきたことから、先代は昭和30年代の初めには、次第に中曽根康弘との距離を置くようになりました。もっとも、高崎中学の同期会(35期なのでサンゴ会と称する)では、その後もたびたび歓談していたようです。

 しかし、戦時中の過酷な整備作業により、先代の健康は蝕まれていました。筆者が小学5年の頃、先代は結核を発症し、松井田の結核療養所(現・松井田病院)に入院しました。その後、筆者が高校生になるまで5年ほど療養生活をしていました。

■先代はまた、海軍の軍人として最前線で戦ってきましたが、残念ながら恩給法による最短在職期間である将校・士官の場合の13年以上には該当しない為(東京高等商船時代の5年半を含めても11年弱であるため)、終生、「恩給欠格者」として国からは何の報償も得ていません。

 結局、先代は昭和53年10月に、還暦まであと2か月余りという時に、突然脳卒中を発症して、3日間意識不明のあと死去しました。59歳でした。農業者年金を全て支払い終わったところでした。

 戦後、ずっと農業、とくに養蚕そして椎茸栽培などに従事していましたが、造船ブームだった昭和40年代後半に、石川島播磨重工業(現・IHI)から、「保証技師(新しく船を建造した際、1年間の保証期間中、造船所側から船に技術者を載せて、不具合が発生した場合に、その原因を究明し必要な対応策を運航者や造船所に伝えて迅速に問題を排除するための専門家のこと。なお、現在は通信技術が発達したのと装置類の信頼度が向上した為、保証技師はどこの造船所も乗せていない)として迎えたい」という手紙が来たとして、先代から見せてもらったことがあります。「どうするの?」と訊ねたら、先代は「家族を置いて長期間船に乗るのは、いくら収入がよくでも、自分には耐えられない」として、ずっと家業を続けていました。

■このように、お国のために全身全霊をささげて奮戦しても、国はなにもしてくれないのです。今回成立した安保法案で、自衛隊員が海外での紛争、あるいは戦争に巻き込まれて、家族にとって悲惨な結果になっても、おそらく国は、きちんと遺族には手厚く補償するから安心して紛争地、あるいは戦地に赴いてもらいたい、というのかもしれません。

 しかし、第二次大戦では、軍人も民間人も、総力戦で国の安全保障のために戦ったのに、結局国の対応は非常に冷たいものでした。「国民の安全・安心のために」安保法制が不可欠だというのであれば、国民に犠牲を強いることの無いように最優先で配慮すべきです。本日未明に成立した安全保障関連法案の今後の行方について、我々市民はこれ以上無関心ではいられないはずです。

【ひらく会事務局】
2



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ